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『21Lesson』:ユヴァル・ノア・ハラリ【感想】|Ⅴ レジリエンス

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 こんにちは。前回、「『21Lesson』:ユヴァル・ノア・ハラリ【感想みたいなもの】|Ⅳ 真実」の続きです。 

Ⅴ レジリエンス

 古い時代が破綻し、新しい物語が登場していない時代における人生を眺めます。知っていること、知らないことを踏まえ、人生の意味について何が言えるのだろうか。 

 「教育」「意味」「瞑想」の三つの視点から、これらの課題を考察しています。それぞれに副題があります。

 

  • 「教育」・・・変化だけが唯一不変
  • 「意味」・・・人生は物語ではない
  • 「瞑想」・・・ひたすら観察せよ 

 

教育

 未来を予測することは難しいが、これから先はさらに難しくなってきます。テクノロジーの進化により、これまで不変だと思っていたことが不変ではなくなるからです。バイオテクノロジーの進歩は人間を作り替え、50年後の未来でさえ予測できなくさせます。そのような中、次世代の子供たちに何を教えればいいのだろうか。

  現在の教育は、情報を与えることに重点を置いています。情報を得ることが最も重要だったからです。すでに世界は情報に溢れています。それらの情報の中には偽物もあります。溢れる情報の中で生きている子供たちに、学校でさらに情報を詰め込む必要があるのかどうか。情報を与え、それを基に自ら考えるように促すだけでは十分ではないだろう。大事なのは情報を選択し、それらを繋ぎ合わせ意味のあるものにする能力だろう。

 変化し続ける社会で大事なのは、変化に対応する能力です。変化のペースは速くなり、寿命の延びれば人生の中で経験する変化の回数は多くなります。人生は連続するひとつの流れではなくなります。それぞれの時期に応じた変化を経験することになります。

 変化は人にストレスを与えます。人は年齢を重ねると変化を好まなくなる。未来は、変化を望まない人々には厳しいものになるだろう。不確実で変化し続ける世界で生きていくためには柔軟性が求められます。精神的な面においても実際的な面においてもです。

 何を頼りに生きていけばいいのか難しくなります。大人に従うのか、テクノロジーに従うのか。どちらにしても危険は伴う。大人は時代遅れになり、テクノロジーは人間を支配するかもしれません。

 アルゴリズムに全て決めてもらうことも一つの選択肢であり、悪いことではないのかもしれません。しかし、そのような生活が人間としての生き方なのかどうかは怪しい。

 

意味

 人生の意味とは何か。それを知ることは、人間の根源的な欲求なのだろう。いつの時代においても、この問いは存在し続けています。現在、私たちが得ることのできる答えは一体何だろうか。

 人生の意味を考える時、我々は役割を求めます。世界の中で起こる出来事において、自身がどんな役割を担っているのか知りたい。そこには具体的な役割よりも物語が重要です。自分自身の存在が、宇宙に対してどれほどの意味を有しているのかを説明して欲しいのだろう。その答えとして過去から語り継がれているのが、我々は宇宙のサイクルの一部であるということです。人生の意味を理解することは、宇宙のサイクルを理解することです。優れた物語は我々に役割を与えます。

 それらの物語は虚構でありながらも、個人のアイデンティティを形成します。人生の真の意味を正しく答えた物語でないにも関わらず、我々は意味があると感じます。物語が間違っていたとしても、我々のアイデンティティは物語の上に構築されているからです。

 我々が知的自立性や情緒的自立性を確立する前に、虚構の物語は語り続けられます。その物語の真偽を問う前にはまり込む。知的に成熟した後でも、その物語の真偽を問うことはせずにむしろ合理的に捉えようとします。真実でなかったにしてもです。物語が存在し、それからアイデンティティが構成され、その後に物語に疑問を投げかけることは難しいのだろう。

 個人のアイデンティティだけでなく、集団や社会も物語の上に存在しています。物語を疑うことは個人のアイデンティティの問題だけでなく、所属している集団自体に疑問を投げかけることになります。集団という大きな存在に対し間違っていることを指摘するのはとても大きな力がいるし、場合によっては社会制度全てを崩壊させることになりかねない。

 物語の頑強さは、物語自体にはありません。物語は客観的な真実に基づいて構築されたものではなく、虚構であり、集団や社会制度の協力のために存在するに過ぎません。本来、脆弱な存在でありながら形を保ち続けるのは、物語自体の強固さではなく、その上に存在する多くの制度や機関のためです。物語を疑うと、その上にある制度や機関を維持できなくなります。物語が崩れると全てが壊れ混沌と混乱が待ち受ける。虚構の物語だとしても信じる必要があります。

 我々は、それぞれ一つの物語だけを信じている訳ではありません。多くの物語を信じることでリスクを分散してきました。ひとつの物語が崩壊した時、自身のアイデンティティを維持するためには別の物語の上にもアイデンティティを築いておかなければならない。また、信じる物語を変えていくことも必要になります。相容れない物語であっても、人間はそれぞれの物語の上にアイデンティティを築くことができます。

 たった一つの物語だけを信じさせるのがファシズムです。ファシズムにとっては、自分たちが信じる物語以外は全て偽物です。しかし、第二次世界大戦が終わり、ファシズムが終焉を迎えた時に何が起きたのか。国家のアイデンティティ以外のものを持つべきでないのがファシズムだとすれば、国家の物語が崩壊した時、彼らは全てアイデンティティを失ったのか。現実はそうではありません。敗戦後も普通に生活していきます。多くの人は国家のアイデンティティを信じながらも、別のアイデンティティも持っていたということだろう。いくつかの物語を信じることができるのは、全ての物語が絶対的な真実ではないと気付いているからかもしれません。

 虚構の物語が存在するのは、苦しみから逃れるためです。人々は実際的な苦しみを味わいたくない。そして苦しみは真実の中に存在します。物語が現実のものか想像上のものかを判断する時に有効なのが、物語の中に苦しみが存在するかどうかです。苦しむ人間が存在するならば、その物語は現実のものです。

 我々が人生の意味やアイデンティティについて知るためには、苦しみに注視する必要があります。

 

瞑想

 瞑想が必ずしも神秘的な要因を含む行為とは限りません。著者が実践した「ヴィパッサナー瞑想」は、具体的で実践的な内容だったようです。ひたすら自分自身を観察します。呼吸に意識を集中し、呼吸だけを感じる。言うのは簡単だが、実践は難しいだろう。人はすぐにいろいろなことを頭の中に浮かべてしまうものです。呼吸に集中することができれば、次に身体の感覚に意識を集中する。単純な感覚だけに集中します。

 自分自身の感覚は自分自身の中にあります。周りの出来事で不快を感じるとしても、それは自分自身の中の感覚が不快を感じるのであり痛みを感じるのです。痛みも怒りも、自身の体の中で起こり消えていきます。

 瞑想が全ての問題を解決することはあり得ません。問題解決の一つのツールに過ぎないだろう。「ヴィパッサナー瞑想」は著者にとって素晴らしい出会いであったかもしれないが、多くの人に有用な普遍的な方法ではありません。あくまで著者に合ったということです。

 アルゴリズムが我々の心を理解し意思決定をする前に、自身の心を理解する必要があります。複雑な社会制度は複雑な物語を作り出し、我々のアイデンティティはその上に成り立っています。自分自身の心を理解しなければ、自分が何者なのかも分からなくなるだろう。 

 

終わりに

 21世紀のための21の思考

 現在、我々が抱える問題について、どのように向き合い解決していくのか。扱っているテーマは深いが、言いたいことは理解しやすい。著者はイスラエル人なので、日本人の感覚とは違うところもあります。また、置かれている情勢も違います。しかし、書かれている問題は人類が共通に抱く問題であり、決して遠い世界の出来事ではありません。そのことが伝わってきます。