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『ホモ・デウス 上:テクノロジーとサピエンスの未来』:ユヴァル・ノア・ハラリ【感想】

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  こんにちは。本日は、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の「ホモ・デウス 上:テクノロジーとサピエンスの未来」の感想です。

 

 「サピエンス全史」で世界的に注目された、ユヴァル・ノア・ハラリの著書です。「サピエンス全史」は既読ですが、なかなか理解しにくい部分もありました。内容が難しいことに加え、文章も難しかった印象です。サピエンス全史は過去から現在の人類へと繋がる物語です。歴史の事実と著者の考察で人類を評価した結果でした。

 本著は人類の未来を予測しています。過去を評価しながら、未来の行く先を考えています。過去からの方向性(ベクトル)を未来への方向性(ベクトル)へ繋げていきますが、予測は必ずしもひとつだけとは限りません。共感する部分と反発する部分は出てきます。分析した考察を基に仮説を立て、さらに仮説を積み重ねます。その仮説を自ら反論しながらです。仮説をひとつずつ潰していくことにより、未来予想をより確実なものにしています。 

「ホモ・デウス 上」の内容

我々は不死と幸福、神性を目指し、ホモ・デウス(神のヒト)へと自らをアップグレードする。そのとき、格差は想像を絶するものとなる。【引用:「BOOK」データベース】

 

「ホモ・デウス 上」の感想

餓・伝染病・戦争

 人類にとって最も恐ろしい事であり、対処すべき脅威でした。もちろん、対処すべき脅威は他にもありますが優先順位が圧倒的に高い。20世紀までは克服すべきものの筆頭でしたが徐々に克服しつつあります。完全ではありませんが、克服する未来が見えてきているということです。数字として表れています。

 

飢餓

 飢餓で亡くなった人の数よりも、肥満で亡くなった人の数の方が多い。人類が対抗すべき問題は飢餓から肥満へ移りつつあるのでしょうか。もちろん、一概には言い切れません。飢餓は減っていて肥満が増えているのは確かでしょう。しかし、肥満は自身の努力次第ですが、飢餓はどうしようもありません。飢餓に苦しむ人々と肥満を単純に比べることに違和感はあります。置かれた状況の違いを考慮せずに、飢餓<肥満の数字だけを取り出して克服しつつあると考えていいものかどうか。肥満は抜きにして、飢餓自体の数が減ってきていることは事実だと思いますが。

 

伝染病

 医学の進歩が病原体を解明していきます。過去、ペスト・スペイン風邪は想像を絶する死者を出しました。病原体を解明することは、対策することができるということです。高い医療技術が予防医学を発展させます。

 新たな伝染病の拡大防止のためには素早い対応が必要になります。常に新しい病原体が現れ、パンデミックの危険性は拭い去れません。それでもパンデミックは起きていません。情報の共有化の効果もあるでしょう。少なくとも過去のような大量の死者を出すようなことは想定しづらい。

 一方、危険が完全に消滅した訳ではありません。 

 

戦争

 人類が戦争を撲滅することは不可能だと思われてきました。実際、20世紀まではそのように信じられてきたでしょう。現在では、戦争などの暴力で死ぬ人よりも自殺で死ぬ人の方が多い。テロによる死者は7,000人程度です。数字で比べることに違和感はありますが、事実として受け取ることも必要です。

 コストを考えるともはや戦争にメリットはありません。しかし、自殺者と比べるのならば、自殺者が多い事の理由も考察する必要が出てきます。比較対象としての数字だけでは意味がありません

 戦争による死者が減少したのは、大国同士もしくは国同士の戦争がもはや起こりえないからです。紛争やテロはなくならないかもしれません。戦争の形態が変わったことで死者の数が減ったに過ぎません。戦争(紛争やテロも含む)自体が完全になくなることとは別問題です。 

 

飢餓・伝染病・戦争の克服 

 飢餓・伝染病・戦争の克服すべき優先順位が下がったのは事実でしょう。何故、この3つが人類の重要な命題であったのか。人類の生命を奪うからです。生命が最も大事なものであり、そのことが人類至上主義へと繋がっていきます。人類に共有される最も重要な価値観です。

 克服できた後に人類が求めるのは不死です。さらに不死だけでは満足できなくなります。すなわち至福が必要になります。幸せに生き続けなければ意味がありません。今後は不死と至福が命題となります。

 方法論を語る時、科学技術の進歩が重要です。これまでの変化とは比べ物にならない変化が訪れるでしょう。死を遠ざけた人類が不死を求めるのは自然な流れです。生き続けるからには苦しみながら生きていたくない。幸せに生きることと併せないといけない。不死と至福は同時に達成すべき命題です。

 では幸福とは何かの定義が必要です。人類としての幸福と個人の幸福は必ずしも一致しません。個々人にとっては個人の幸福が重要ですが、人類が不死と至福を求めるということは人類としての幸福を求めることになるでしょう。

 物理的に豊かだから幸福だと限りません。著者は、GDP・自殺率・消費エネルギーなどを用いて証明しています。幸福の維持は更なる幸福を求め、永遠に続きます。一度得た幸福が消えた時、次の幸福は前回以上の必要があります。消えるからこそ、次の行動に移ることができるという見方もありますが。

 幸福は脳の中の反応なので数値で測ることは難しい。脳の反応であるなら薬物でコントロールできますし、実際に実現しています。薬物自体をコントロールすることの重要性が増し、国家の役割も増していきます。生物学的アプローチの可能性と適切なコントロールを両立させる必要があります。

 

類の進化

 技術の発達が人類を進化させます。自然の摂理の中での進化ではありません。人間を自然の摂理の中の存在だとすれば、人間自身が進歩させた技術も自然の摂理の範疇と言えなくもありませんが。人類は速過ぎる進化のスピードを経験するでしょう。

  • 生物工学
  • サイボーグ工学
  • AI

 全てが現実のものになりSFではなくなります。止めることはできません。人類の適切な進歩のためには目的を明確にする必要があります。ただ、都度都度で目的が変わることもあるでしょうし、変える必要も出てきます。手段を得ると使い方を誤るのが人間であり、歴史はその繰り返しです。人類が扱ってよい技術かどうかを見極め、発明・発見・開発したからといって無秩序に使うと進化の方向を誤ります。

 共通の価値観に基づいて技術を使うことが重要です。必要なことは限度(ブレーキ)の確保です。人間(生命)のためなら全てが許される訳ではありません。

 

ルゴリズムの存在

 アルゴリズムは、問題を解くための手順を定型化したものです。人間の思考・行動もアルゴリズムによって決められているのでしょうか。

 個々人によって違うアルゴリズムが存在するのであれば、人間の行動をアルゴリズムという数学的要素で測ることは不可能に感じます。それにもっと違う情動や感情といった要素があるのではないでしょうか。これらを含めてアルゴリズムと言ってしまえば、それまでですが。

 人間を複雑なアルゴリズムだとすれば、正しいアルゴリズムを持った人間が生き残ります。すなわち、優れた判断と結果を残せる人間です。定型化された画一的な人間ばかりになってしまいそうですが。

 インプットに基づきアウトプットするのは人間だけでなく動物にもあります。アルゴリズムに情動や感情が含まれるとすれば、人間と動物の違いは完全に機械的かどうかだけかもしれません。しかし、動物にも情動や感情があるならば、人間と動物の違いはありません。複雑か単純かだけの違いです。

 認めたくない人もいるでしょう。家畜の育て方を見れば分かります。動物にも情動や感情があるとすれば、とても耐えられない環境で生育しています。動物たちも苦しんでいるのが現実かもしれません。

 

同主観的事実

 事実には3つ種類があります。

  • 客観的事実
  • 主観的事実
  • 共同主観的事実

 客観的事実は、信じていることとは別に存在する事実です。どのような状況であれ、誰であれ、変えることのできない事実のことです。

 主観的事実は、客観的事実がどうであれ私自身が信じている事実です。第三者が信じているかどうかは問題ではありません。私自身が重要です。

 共同主観的事実は、コミュニケーションに依存する事実です。共同主観的事実があるから大勢で協力できます。同じ事実を信じることで共同体になります。あくまで主観的事実ですが、同じ主観を持った人々の集団です。

 協力の度合いが違うだけで動物も昆虫も同じように協力して生存しています。少数の集団や数え切れないほどの個体数の集団も協力していることに違いはありません。違いは規模と協力の仕方です。要は柔軟に対応できるかどうかです。両方を兼ね備えているのが人類であり、理由は共同主観的事実があるからです。人類以外の生物では実現していませんし実現できません。人類の圧倒的優位性の根拠です。

 共同主観的事実=虚構です。多くの人々が共有することで虚構が事実になります。少なくとも同じ主観を持つ者の間では。

  • 人類全体
  • 国単位
  • 地域単位

  様々な共同主観的事実があります。人類共通という大きさは、人類を地球の支配者にしました。

 

最後に

 目次を見ると体系立てて道筋どおりに構成されていますが、読み始めると話がどこに向かうのか分かりにくい。ふたつ(もしくは複数の)の対立する意見のどちらにも反証をしながら、どちらにも理解を示すこともあります。検証が多く、何を言いたいのか分かりにくく感じてしまいます。