こんにちは。本日は、アガサ・クリスティの「アクロイド殺し」の感想です。
1925年に連載小説として発表されたポワロシリーズの三作目。アガサ・クリスティの作品全体でも人気のある作品です。100年近く前の作品ながら、今でも十分読み応えがあります。
本作で用いられた叙述トリックは、「フェア・アンフェア論争」を引き起こします。フェアかどうかは読者の受け取り方次第ですが、論争になるほど注目されたということです。
本作のポワロはすでに引退しています。また、ヘイスティングス大尉はいません。代わりにポワロの隣人「シェパード医師」が語り手になります。シェパードは、常にポワロと行動を共にする訳ではありません。だから、ポワロの行動は見えにくい。ヘイスティングスがいないことが、本作のトリックが成り立つ理由のひとつです。
登場人物はそれほど多くありません。舞台になる村も小さい。だからと言ってミステリーが易しくなる訳ではありません。犯人の正体は予想できます。しかし、事件の背景の全てを推理することは難しい。
「アクロイド殺し」の内容
深夜の電話に駆けつけたシェパード医師が見たのは、村の名士アクロイド氏の変わり果てた姿。容疑者である氏の甥が行方をくらませ、事件は早くも迷宮入りの様相を呈し始めた。だが、村に越してきた変人が名探偵ポアロと判明し、局面は新たな展開を…【引用:「BOOK」データベース】
「アクロイド殺し」の感想
叙述トリックの是非
ミステリー作品で仕掛けられるトリックには様々な手法があります。年代を重ねるごとに新たな手法が生み出されていく。それがミステリーファンを魅了する要素のひとつだろう。では、ミステリー作品のトリックに許されないものがあるのだろうか。読者は作中の謎を推理しながら読み進めます。犯人であったり、犯罪の方法であったり。そこには読者と作者の暗黙の了解が必要です。
読者には必要な情報が提示されることが前提です。情報があるから、読者は作品を読みながら推理していくことができます。必要な情報が提示されなかったり、トリックが破綻しているのは論外です。
本作で使われた叙述トリックはどうだろうか。語られる事実に嘘はありません。ただ、意図的に重要な情報は隠されています。問題は、隠されていることが分かるかどうかです。
読者は、語り手は知り得ることを全て語っていると信じています。それを逆手に取ったのが叙述トリックです。当時は卑怯な手法に捉えた人も多かったようです。だからこそ、フェア・アンフェア論争が起こったのだろう。
現在では叙述トリックはミステリーの手法のひとつとして認知されています。多くの読者に認められている証拠です。ミステリーで許されないのは、読者が予測や推理できないことが明白な作品です。難解であることは許容されます。本作は、シェパードの手記だと分かれば犯人は見えてきます。それでも叙述トリックの存在を知らなければ、そこに行き着くのは難しいだろう。
事件は殺人事件という単純な行為です。しかし、その背景には複雑な人間関係が存在します。事件自体の複雑さに加え、叙述トリックという構成自体のトリックもあります。二重のトリックを組み合わせ、かつ読者にも推理可能にすることは、作者にとっても難しいだろう。
ポワロの捜査
殺人事件の捜査を依頼されることで、ポワロは事件に関わることになります。ポワロの捜査は分かりにくい。彼の行動が何を目的にしているのか。関係者への聴取から何を得ようとしているのか。また、何を得たのか。ポワロの灰色の脳細胞が考えていることは、結末まで明かされません。それがポワロだし、その上で読者は推理を重ねていきます。
本作はさらにポワロが見えにくい。ポワロの視点で描かれているか、語り手がヘイスティングスだったら、もっとポワロが見えただろう。ヘイスティングスはだいたいポワロと行動を共にします。ポワロの行動の多くが見えるし、二人の会話から見えてくるものもあります。
語り手がシェパードであることが、本作の重要なトリックです。ヘイスティングスにいてもらっては都合が悪い。だから、引退後のポワロであり、ヘイスティングスは南アフリカに行ってしまっているのだろう。
シェパードとポワロは全くの他人です。隣人に過ぎません。常に行動を共にする関係ではありません。行動を共にする時も、ポワロが何を意図してシェパードを帯同するのか分かりません。表面上の理由は語られます。しかし、ポワロに限っては言葉通りに受け取ることはできません。
シェパードが理解できていないことを、読者が理解できる訳はありません。また、シェパード自身の解釈も加わります。シェパードの手記には秘密もあります。これが本作のトリックの要素であり、読者が結末を予想することを難解にします。
複雑な人間関係
突発的な殺人でなければ、犯人には動機があります。犯人を突き止めるためには、被害者の人間関係が重要です。しかし、人間関係はそれほど単純ではありません。人はいくつもの顔を持っています。それらが複数の人間の間で絡み合います。しかも、彼らが本心や本当のことを話しているとは限りません。アクロイドを取り巻く人々は他人同士ではありません。だからこそ、彼らの供述にはそれぞれの思惑や感情が込められます。
ポワロは村の人間ではないから、本音が出ることもあるのだろう。彼らが他人に抱く思いは複雑であり、主観に彩られています。同じ人物でも複数の顔を持つ。人間関係の中では当然のことです。
登場人物はそれほど多くないので、名前と人物はすぐに一致します。ただ、事件前後の彼らの行動を含めるとなかなか混乱してしまいます。彼らの中に犯人がいるなら、犯人は本当のことを言いません。他の人の供述と矛盾が出ることで犯人を特定できます。
しかし、必ずしも良好でない人間関係の中では、誰もが正しいことを言うとは限りません。殺害事件の捜査は証拠を探すことも重要ですが、関わる人間関係の嘘を暴き、追い詰めることも重要なのだろう。
終わりに
謎の本質が叙述トリックにあるとすれば、アンフェアだという意見にも納得できます。読者には謎解きのために必要な情報は与えられるべきであり、著者が意図的に隠す手法は議論を巻き起こすのは当然です。
ただ、語り手の存在自体が謎の一部となることはミステリーの可能性を広げることにもなります。単純に面白いかどうかで判断するなら、叙述トリックもありだろう。