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『悪と仮面のルール』:中村 文則【感想】|悪とは何か

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 こんにちは。本日は、中村 文則氏の「悪と仮面のルール」の感想です。 

 

 玉木宏主演で映画化されていますが、あくまで小説についての感想です。

 タイトルを見ると、人間の負の側面を描き出している作品だと想像します。悪と言っても種類は様々です。法律上の悪、道徳的な悪。本作は何をもって悪と定義するのだろうか。人は生まれながらに善と悪の両方を持っているのだろう。どちらが上回るかで善悪が決まるのかもしれません。

 善悪は人の本質です。それを物語の中でどのように表現するのか。人の内面を言葉で伝えるのは難しいだろう。 

「悪と仮面のルール」の内容

邪の家系を断ちきり、少女を守るために。少年は父の殺害を決意する。大人になった彼は、顔を変え、他人の身分を手に入れて、再び動き出す。すべては彼女の幸せだけを願って。同じ頃街ではテロ組織による連続殺人事件が発生していた。そして彼の前に過去の事件を追う刑事が現れる。本質的な悪、その連鎖とは。【引用:「BOOK」データベース】  

 

「悪と仮面のルール」の感想 

られた「邪」

 主人公「久喜文宏」は、父の捷三の手で「邪」にされようとしています。久喜家は「邪」を生み出す家系だからです。また、「邪」とは何かについては、捷三の口から語られます。

 最初に疑問に思うのは「邪」とは何なのだろうかということです。「邪」と「悪」の違いはどこにあるのだろうか。「邪」は人工的に作られ、「悪」は生まれながらに持つ人間の特性ということだろうか。

 人は二面性を持ちます。完全な善人はいないだろう。誰でも善と悪を抱いていて、その狭間で生きています。どちらが優位かで性格や行動が決まり、多くの人が悪を心に沈ませ社会を生きています。

 一方、「邪」は意図的に作られます。久喜家は過去から「邪」を作ってきた。途切れることはあっても連綿と続いています。捷三は文宏を「邪」にするために、まず彼に地獄を見せることを宣言します。養女の久喜香織を汚すことです。文宏にとって大事な人である香織を汚し、負の感情と絶望を与えることで「邪」にします。

 しかし、香織を汚すことと「邪」になることに直接的な繋がりを感じません。大事な人を奪われたり汚されれば、怒りや恨みは捷三に向かいます。世界に向かう必然性はどこにあるのだろうか。実際に文宏は捷三を殺すことに意識が向きます。自然な感情だろう。

 捷三が「邪」について文宏に語ったのは酒に酔っていたためのようですが、その裏には捷三の計算があったのかもしれません。文宏に地獄を見せることで「邪」の存在になるかどうかは分からない。「邪」になるために与えられた地獄のために、「邪」を恨み続ける可能性もあります。

 だとすれば、捷三自身を殺させるために、文宏に「邪」と地獄の内容を語ったのかもしれない。捷三を自発的に殺すことで、文宏は自ら犯罪者になります。人殺しは法律上の犯罪だけでなく、生物としての罪も含んでいます。

 しかし、そのまま「邪」として生きていくかどうかは分かりません。香織を守ったことは間違いありませんが、悔恨と苦しみの中で生き続けることになるかもしれません。そうなれば「邪」ではないだろう。

 久喜家が「邪」を生み出す家系だとしても、その方法はかなり不確実性があります。「邪」が作られるかどうかは文宏次第です。絶対的な「邪」は必然的に生まれません。それでも「邪」は作り出せると考える久喜家に現実感はありません。 

 

えない感情

 文宏に求めたのが完全な「邪」であるとするならば、そこに感情は不要なのだろう。感情を完全にコントロールすることは難しい。感情を失わせることが必要です。そのために捷三が取った手段が、香織を損なうことだったのだろう。香織に対する感情(愛情)が大きければ大きいほど、それが打ち砕かれた時には何も残らなくなります。

 文宏は捷三に対して憎しみを抱きます。しかし、憎しみを捷三にぶつけたとしても損なわれた香織は元に戻りません。行き場を失った憎しみは、やがて「邪」になると考えたのかもしれない。

 「邪」の性質を持つはずの文宏には、きっかけだけが必要だと考えていたのだろう。また、愛情が大きければ大きいほど、香織を損なった時の効果は確実だと考えた。人を動かす要素は論理的な思考よりも感情の方が大きい。冷静な思考だけでは、なかなか動き出せません。

 香織が損なわれることを告げられた文宏は、様々なことを考えます。どのようにして香織を守るかを考え続けることになります。ただ、冷静に考えれば考えるほど、守ることと自身が被るリスクを天秤にかけてしまいます。止めるための手段が限られたもの(捷三を殺すこと)だとすればなおさらです。

 人を殺すことを考えるのと実際に行動に移すのでは、天と地ほどの差があります。香織を守るためとはいえ、自身の人生を犠牲にすることになります。どれだけ綿密に計画し、完全犯罪が可能だとしても、人を殺したという十字架は一生背負います。憎しみを抱く相手であったとしてもです。

 しかし、一線を越えることは不可能ではありません。超えるためのエネルギーは感情です。香織に対する愛情が文宏を動かすことになります。香織を守るために自身の人生を犠牲にしても構わないと思うのは、彼女に対する愛情のためです。

 捷三の思惑は、文宏の香織に対する愛情を利用して「邪」にするつもりだったのだろう。感情が何の役にも立たないことを実体験で知らしめることで完全な「邪」にする。しかし、感情が捷三の計画を壊すことになります。

 一方、捷三は文宏が自分自身を殺すことも予測していたように見えます。その場合においても、人を殺すことで感情を失わせることができると考えていたのかもしれません。普通の感覚では、殺人を犯したことに耐えられないと考えたのだろう。確かに、文宏は捷三を殺した罪を背負い続けることになります。

 どちらにしても、捷三の策略は失敗します。その理由は文宏が抱く香織への愛情が想像以上に大きかったからです。文宏が背負う罪の大きさよりも、香織を助けたという結果の方が大きかったのだろう。愛情という感情は簡単には消えません。捷三は文宏が「邪」になると確信していたのだろう。だからこそ、文宏の感情を甘く見過ぎていたのかもしれない。 

 

対的な悪は誰か

 「邪」とは具体的に何をする存在なのだろうか。

 久喜家は善と言い難い。父の捷三と兄の幹彦はともに社会の闇を生きています。捷三も幹彦も「邪」について語ります。明確に語られるのは、軍需産業での金儲けです。世界の悪意を引き出して戦争や紛争を起こし、それを利用して利益をあげます。人の命を対価としたビジネスです。

 しかし、現実世界でも実際に存在することです。軍需産業は経済活動に組み入れられています。もはや切り離すことはできない。その一角を担うことは悪かもしれませんが、捷三や幹彦の言う久喜家の「邪」との関係性は感じない。結局は、人の命で金を稼ぐことが「邪」ということだろうか。そうなれば、久喜家が作ろうとしている「邪」は特殊な存在ではありません。

 捷三がやろうとしているのは、人工的に悪意を作り、その結果として他人の命を利用できる存在を作ることかもしれません。「邪」という言葉は、文宏を誘う言葉の魔力を感じさせるためだろうか。

 「邪」=「絶対的な悪」だとすれば、軍需産業が絶対的な悪の象徴でなければ、幹彦の「邪」は「邪」ではありません。久喜家以外にも多くの人が関わっています。全員が「邪」のはずはありません。そもそも文宏以外は「邪」として育てられていないので当然ですが。

 「邪」が「邪」として納得のいく説明はなかったように感じます。捷三や幹彦が語れば語るほど、「邪」が見えにくくなります。 

 

終わりに

 著者の考えていることが、登場人物の台詞を通じて語られているのだろう。捷三や幹彦の会話は世界の実情と人間の本質だろう。

 物事には多くの側面があります。著者の考えることは一面においては正しい。しかし、絶対的とは感じがたい。だからこそ、文宏は思いどおりにならなかったのだろう。

 著者の意見は時に押し付けがましさを感じます。捷三や幹彦が自身の考えが正しいとして話すからだろう。断言される意見には反発を覚えます。文宏と同じように。