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『犯人に告ぐ』:雫井 脩介【感想】|犯人よ、今夜は震えて眠れ

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 こんにちは。本日は、雫井 脩介氏の「犯人に告ぐ」の感想です。

 

 雫井氏の小説は「つばさものがたり」「クローズド・ノート」を読んでいます。本作を読んでみると、著者の作品の幅の広さに感心します。

 「相模原男児誘拐殺害事件」と「川崎市連続児童殺害事件」の二部構成になっています。相模原は、主人公「巻島史彦」の人間性と警察の内部事情を描くプロローグ的な役割です。本筋は川崎市だろう。しかし、相模原があるから、巻島の心象や行動力に説得力があります。彼の苦悩と組織の不条理さも伝わります。

 事件の捜査が難航すると、警察には批判が集まります。犯人は警察や世間を挑発し、犯人が出す声明で劇場型犯罪の様相を呈してきます。 

 地道な捜査で成果が上がらなければ、何らかの手を打たなければなりません。世間の注目を集めている事件ならなおさらです。捜査の起死回生を図るため、警察も劇場型犯罪に踏み込みます。手段はテレビであり、表面上は情報提供依頼です。裏にある真の目的は、本作のタイトルが表しています。

 巻島の人生を背景に描かれる犯罪捜査は、単なる事件解決のためだけの小説ではありません。巻島の人生の物語です。巻島に共感できるかどうかも大きなポイントになるだろう。 

「犯人に告ぐ」の内容

闇に身を潜め続ける犯人。川崎市で起きた連続児童殺害事件の捜査は行き詰まりを見せ、ついに神奈川県警は現役捜査官をテレビニュースに出演させるという荒技に踏み切る。白羽の矢が立ったのは、6年前に誘拐事件の捜査に失敗、記者会見でも大失態を演じた巻島史彦警視だった―史上初の劇場型捜査が幕を開ける。【引用:「BOOK」データベース】 

 

「犯人に告ぐ」の感想

織の現実

 警察組織は事件を解決するために存在しています。捜査責任者の指示の元、事件を追います。事件を統括する上層部は、全体の情勢を見ながら決断を下していく。現場の責任者は状況に応じて臨機応変に動いていく。現場と本部が同じ方向性を持ち、意思統一がされていれば、捜査は効率的に動きます。しかし、現実はそうではありません。現場にいない上層部は事件を正面から見ていない。

 相模原男児誘拐殺害事件は現場と上層部の意思が統一されていないので、現場は振り回されます。事件と犯人は待ってくれません。単独犯にしろ、複数犯にしろ、動くのは速い。

 警察は人数が多いことが有利な点であり、圧倒的な人員で包囲網を狭めていきます。一方、人数が多いと動きが鈍くなります。各人が好き勝手に動くわけにはいかない。効率的に動くためには、全ての人員が役割を与えられ遂行する必要があります。役割を周知することが重要です。

 現場の捜査員は、事前に与えられた役割に従って現場の指揮官に従います。予測外の状況に陥った場合は、指揮官の指示を待つことになります。個人の判断で動くことは難しい。

 現場の指揮官は、状況に応じてすぐに命令できるだろうか。大幅な命令変更を行うには、上層部の許可が必要だろう。どこまで現場の裁量でできるか分かりませんが、権限は小さいのかもしれません。現場は上層部の指示・命令を待たなければならない。上層部は現場の臨場感や緊張感を知りません。スムーズな意思決定ができていない。

 組織を動かすためには、明確な指揮・命令系統が必要です。だからこそ、組織が維持できます。組織は構成する人々が役割を果たすことで力を発揮できますが、実際には難しいのだろう。

 

敗は許されない

 どんな仕事でも失敗は許されませんが、警察捜査の失敗は取り返しがつきません。人命がかかっている事件では、失敗は取り戻せない。プレッシャーの中での戦いだろう。それが警察というものですが。

 組織である以上、失敗すれば誰かが責任を取らなければなりません。失敗が許されないことと、失敗が起きないことは別です。最悪の事態も含めて、あらゆる事態を想定するのが警察です。だからこそ、解決への道筋を見つけ出せます。

 現場は失敗を身近に感じながら捜査するのかもしれません。しかし、現場を直に見ていない上層部はどうだろうか。もちろん同じような意識でいるはずです。ただ、刻々と移り変わる情勢を報告でしか知ることができません。順調に推移すれば安心できるが、そうでないなら納得しがたい気持ちが生まれるのだろう。

 上層部も失敗は許されないと知っています。だから失敗を想定しないのかもしれない。しているが覚悟がないということだろうか。

 あらゆる可能性を考え、事態の推移を見つめ、総合的な視野に立って事件を追うのが上層部の役割です。希望的観測は危険しか生みません。解決への道筋が見えていても、突然、道は消えるかもしれません。

 現場の捜査員は、上層部の動きに翻弄されます。失敗できないのは誰もが分かっています。分かっていることと行動で示すことは違います。誰もが失敗と言う緊張感を持たなければならない。しかし、現場と上層部の温度は違うのだろう。 

 

ディアは敵か味方か

 敵・味方で単純に割り切れるものではありません。警察の捜査の妨げになるかどうかで見るべきだろう。捜査上の不手際があれば、メディアがそれを報道することに意義はあります。何もかもを暴く必要はありませんが、失敗から学べることもあります。世間の目が厳しいことを知ることも重要です。ただ、権力に抵抗するためだけの報道には意味がない。報道すること自体を目的にしても意味がないだろう。

 公権力に対して、世間もメディアも厳しい。理性的な批判もありますが、感情的なものもあります。メディアと警察が常に協力し合う必要はありませんし、それぞれの使命は違います。

 相模原事件においては、メディアと警察の関係は対立が中心です。警察は情報を隠すか、都合の良い情報しか出しません。だからこそ、追及が厳しくなるのだろう。警察組織への批判から、警察官個人への批判へと繋がっていきます。誰もが失敗しようとして失敗する訳ではないのですが。

 メディアの扱いはとても難しい。協力もあれば、敵対もあります。だからこそ緊張感が生まれるのかもしれません。警察がメディアを利用するのは諸刃の剣です。都合良く使われてくれるはずはありません。報道も戦いです。同業他社との戦いを勝ち抜かなければなりません。

 国民の知る権利・権力の監視など、メディアは公の役割を担っています。しかし、民間企業である以上、利益を追求しなければなりません。他社の先を行かなければならない。警察とメディアの駆け引きに加え、メディア同士の戦いも絡んできます。警察は犯人を追い、メディアを利用します。メディアは警察を利用し、報道合戦を戦います。国民はメディアを通じ、警察に協力し、批判もします。

 事件解決を誰もが望んでいるはずです。それでいながら、情勢は複雑に動いていきます。メディアの立ち位置次第で、世論は簡単に動きます。それだけ影響力は大きい。メディアと犯人が繋がっていくのも、その影響力のせいだろう。

 

人と被害者

 犯罪が起きると、犯人と被害者が生まれます。犯人と被害者は直接的な関係ですが、被害者は犯人を捕まえる力がありません。警察に頼るしかありません。全面的に信頼し、期待するしかないだろう。期待が裏切られると、失望や反感に変わります。警察が絶対ではないことを、誰もが知っています。必ず結果を出す訳ではありません。

 犯人は人間であり、警察組織も人間の集まりです。人間同士ならば、思い通りに事態が動かないこともあります。事件に関わりのない第三者ならば、失敗もあることを理解できます。警察を批判することはあっても、他人事だろう。しかし、被害者はそうはいきません。自身の事件だけは絶対に解決して欲しいし、解決できると信じます。

 被害者が恨みや怒りの向ける相手は犯人のはずです。事件が解決すれば、怒りは犯人へと向かいます。しかし、犯人が捕まらない時は、状況が変わってきます。苛立ちは警察に向かいます。犯人は見えませんが、警察は目に見えます。怒りを向けやすい。

 世間も同じで、メディアが矛先を変えていきます。犯人が悪いのは当然であり、逮捕されれば犯人を大きく報道します。しかし、犯人が捕まらなければ報道する対象がありません。そうなれば、見えている警察を叩きます。警察の失敗があればなおさらだろう。

 警察の目的は犯人を捕まえることであり、情報を出すことではありません。メディアは情報を出し、売ることが目的です。国民が求めている情報を流します。被害者もメディアから得る情報が大半になり、メディアに誘導されていきます。

 被害者の感情は不安定です。常に揺れ動くのは仕方がありません。犯人と被害者と警察の関係は常に不安定と言えるのだろう。

 

終わりに

 事件を解決するためのミステリーというよりは、巻島の物語です。巻島が事件に対峙しながら、組織・マスコミ・被害者の関係の中で動いていきます。事件自体が謎に満ちている訳ではありません。

 バッドマンの真の動機は描かれません。彼の背景は、それほど重要ではないのかもしれない。巻島の存在と人生が物語の主軸であり、引き込まれる要因です。警察小説ですが、少し異質な切り口だと感じます。