ご覧いただきありがとうございます。今回は、宇佐美まことさんの「羊は安らかに草を食み」の読書感想です。
穏やかなタイトルから想像できないくらい重い内容でした。認知症、太平洋戦争敗戦後の満州の混乱、家族の在り方。人生を振り返る重厚な内容に加えて、それらが関連し合って物語の先が見えてきません。
主要な登場人物は三人です。認知症を患った86歳の都築益恵、二十年来の友人の80歳の持田アイと77歳の須田富士子。持田アイの視点で描かれる現在と都築益恵の視点で描かれる終戦後の満州が交互に描かれます。
認知症で記憶を失っていく益恵の人生を巡る旅で、彼女たちは何を見るのでしょうか。認知症になる以前に語らなかった益恵の過去は、彼女の人生に何をもたらしていたのでしょうか。
戦中、戦後を生きた彼女たちの労苦を想像できません。戦後の満州は知識として知っていても、実感するのは難しい。重い内容ですが、戦争を知らない世代も受け継いでいかなければならないでしょう。
「羊は安らかに草を食み」のあらすじ
アイと富士子は、二十年来の友人・益恵を“最後の旅”に連れ出すことにした。それは、益恵がかつて暮らした土地を巡る旅。大津、松山、五島列島…満州からの引揚者だった益恵は、いかにして敗戦の苛酷を生き延び、今日の平穏を得たのか。彼女が隠しつづけてきた秘密とは?
旅の果て、益恵がこれまで見せたことのない感情を露わにした時、老女たちの運命は急転するー。【引用:「BOOK」データベース】
「羊は安らかに草を食み」の感想
認知症と記憶の喪失
認知症は認知能力を低下させ、日常生活を困難にさせます。益恵の認知症の症状がどの程度かは明確ではありません。ただ、最近の記憶だけでなく過去の記憶まであやふやであったり忘れているようなので、かなり進行しているのでしょう。だからこそ、最後の機会として、益恵の人生を辿る旅をします。
数ある症状の中でも記憶障害について描かれています。その他の症状についても多少は描かれていますが、それらも記憶を失ったことに起因しています。それだけ記憶が重要だということです。記憶は人生そのものなのです。
認知症のことを詳しく知らないので的外れなことを書くかもしれませんが、記憶は消えて無くなってしまうのでしょうか。短期記憶は長期記憶になる前に失われてしまうのならば、完全に無くなってしまいます。
長期記憶は記憶に刻まれていたはずです。消しゴムで消したみたいに白紙になってしまうものなのでしょうか。思い出すきっかけが失われてしまっただけかもしれません。益恵を旅に連れ出したのも、きっかけを見つけるためです。
益恵の過去に数々の苦難があったことは容易に想像できます。同じ時代を生きたアイと富士子、三千男ならば分かっています。それらの記憶は益恵の存在そのものです。だからこそ、認知症で失われてしまったと信じたくなかったし、信じていなかったのかもしれません。
戦争は不幸しか生み出さない
戦争に正当な目的や理由があったとしても、負の側面を消し去ることはできません。そして最も辛い思いをするのはただ翻弄されるだけの名もなき人々です。民間人だけでなく、兵士も同様です。
戦争を知らない世代は、その壮絶さを知りません。知識として知っていても、体験することとの間には大きな隔たりがあります。
現在でも、世界では多くの人々が紛争に巻き込まれています。報道で様々な情報を得ることはできます。映像で見ることもできます。しかし、それらを実感できている人がどれくらいいるでしょうか。映像で見れば見るほど、現実感が遠退いていく気がします。情報の受け手の問題なのは間違いありません。しかし、人は自分自身の身に降りかからなければなかなか実感できません。
旅をする現在の益恵と戦後の満州を生き抜く益恵が交互に描かれます。戦後の満州が厳しい状況にあったことは知識として知っています。しかし、あくまでも知識です。子供の視点で描かれる満州の混乱は、知識で知る満州とは比べ物にならないくらい悲惨です。小説なので創作ですが、状況は現実に起こったことです。想像を絶するとはこのことを言うのでしょう。
現在起こっている紛争でも程度は違っても同じようなことが起こっているはずです。人は同じことを繰り返しています。人類の罪は積み重ねられることはあっても、無くならないのでしょう。だとすれば、人類に救いはないのかもしれません。
人生の総括
様々な出来事の積み重ねが人生です。人生を振り返ることは、生きてきたことの総括でもあるのでしょう。幸・不幸も自分自身が決めることです。両方が入り交じっているのが人生だと思いますが。
振り返るためには記憶が必要です。過去のことを全て覚えている人はいません。しかし、自分の人生で重要だったことや岐路だったことは忘れません。辛い出来事ほど覚えているものでしょう。それらの記憶が全て失われてしまえば、人生を振り返ることはできない。失われていないとしても、思い出すことができなければ同じことです。
益恵は認知症で、記憶が失われていきます。今まで積み重ねてきた人生を失っていきます。そのことだけをもって、益恵の人生が無かったことになる訳ではありません。彼女と関わった人たちの中には、益恵の人生は確かに存在しています。
ただ、益恵自身が人生を振り返ることができなければ、彼女の周りにいる人たちはやりきれません。益恵の記憶の中にいるはずの自分たちも失われているからです。人生の中で重要なのは他者との関係です。もちろん、起こった出来事も重要なのは間違いないですが、そこには他者との関わりが必ずあります。家族であったり、友人であったり。
益恵の過去を辿る旅は、彼女の記憶を全てでなくても呼び覚ますかもしれません。益恵の人生を総括するのは、彼女自身しかいません。
アイと富士子は、益恵の人生を辿ることで自分自身の人生も振り返ることになります。益恵とアイと富士子が一緒に過ごした期間は長い。益恵の人生の中には、アイたちが存在します。益恵の人生を自分と無関係と割り切ることはできません。
人生を振り返ることは、これからの生き方を見つめ直すことにもなります。完全に満足した生き方を送ってきた人は少ないでしょう。どこかに後悔があるはずです。後悔は取り戻すことはできませんが、未来を見て生きていくことはできます。
彼女たちは老人であり人生の先は短い。だからといって、未来に希望を持たずに生きていくのは辛い。人生を総括するということは、未来を見つめる作業にもなるのでしょう。
終わりに
益恵のための旅であるとともに、アイと富士子のための旅でもあります。また、益恵と関わった人たちの旅でもありました。旅の最終地で、佳代と再会するのも決められた運命だったのかもしれません。そう感じてしまうほど、益恵と佳代の間には確固たる絆を感じます。
果たして、三千男はどこまで予想して旅に行かせたのでしょうか。アイと富士子と佳代にとって、この旅がなければ人生は全く違った結末を迎えていたでしょう。
最後までご覧いただきありがとうございました。