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『ライオンのおやつ』:小川 糸【感想】|人生の最後に食べたい”おやつ”は、なんですか

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 こんにちは。本日は、小川 糸さんの「ライオンのおやつ」の感想です。 

 

 2020年本屋大賞第2位。余命僅かながん患者「海野雫」の人生の終末を描いた物語です。タイトルからは全く想像できなかった内容でした。

 舞台はホスピスです。積極的な治療では治らない患者たちが人生の終わりを穏やかに過ごす場所です。そこに行くということは、遠からず訪れる死を受け入れたということです。充実した人生にするためのなのか。それとも諦めのためなのか。人それぞれだろう。治療を行い、完治を目指す時期は終わっています。治る見込みはなく僅かな余命を受け入れるしかない。認めなければならない。ホスピスに入ることは勇気のいることだろう。

 雫も長い闘病生活の末、ホスピスに入ります。「ライオンの家」というホスピスです。どのような思いだったのだろうか。同じ境遇でなければ真に共感することはできないだろう。ただ、想像することはできます。もし、自分だったらと考えることはできます。

 誰でも死は訪れます。現実的なこととして捉えるには、死が迫っていることを感じないと分からない。しかし、彼女たちの姿は決して他人事ではないだろう。  

「ライオンのおやつ」の内容

余命を告げられた雫は、残りの日々を瀬戸内の島のホスピスで過ごすことに決めた。そこでは毎週日曜日、入居者がもう一度食べたい思い出のおやつをリクエストできる「おやつの時間」があった―。【引用:「BOOK」データベース】  

 

「ライオンのおやつ」の感想

生を振り返る場所

 ホスピスにいる人たちがどんな思いを抱いているかは想像するしかありません。雫が抱いている思いも間違いなくひとつの形です。10人いれば10人の思いがあります。ホスピスに入ることを決めるまでの過程も、生きてきた人生も人それぞれです。

 共通しているのは、余命を受け入れたということです。逃れられないものとして受け入れざるを得ないのも真実です。正面から受け止めるか、他の選択肢がないから受け入れるか。気持ちの持ち方で全く違うかもしれません。

 人が死ぬ場所はホスピスだけではありません。病院もあるし、自宅もあります。不慮の事故で突然死ぬこともあります。最後まで病院で治療に臨むのもひとつの形です。自宅で家族と最後を過ごすのもひとつの形です。

 雫は何故ホスピスを選んだのだろうか。父に平穏な暮らしを続けてもらいたい思いがホスピスを選ばせたのかもしれません。ホスピスに行き着く前には、相当な治療の苦しみがあったはずです。余命宣告の絶望もです。その部分についてはあまり詳細に描かれませんが推測はできます。

 ホスピスでは積極的な治療を行わず、痛みをコントロールします。患者のQOLを重視します。穏やかな日々は人生を振り返るのに必要で大切なものなのだろう。

 人生を終える時、人生を振り返る必要があるのだろうか。満足した人生を送れた人はどれくらいいるのだろう。多くの人が何らかの後悔を抱いているはずです。それを受け入れ、消化し、人生を意味あるものだったと思うことは難しい。雫の年齢ではなおさら難しいはずです。突然死が訪れ、死んだことにも気付かないよりも、人生を振り返る時間があるだけでも幸せなのだろうか。

 振り返ることで残りの人生の生き方も変わります。人生の終わりをいかにして迎えるかを考えることになります。今まで生きてきた人生とこれから生きる人生は続いています。目を背けることもできます。しかし、目を背けることは自分自身に目を背けることかもしれません。自身の存在を否定しかねない。

 ホスピスは穏やかな日々を提供し人生を振り返る手助けをしますが、人生を振り返るかどうかはその人次第だろう。

 

を受け入れることと生きること

 生きているからには必ず死を迎えます。生まれてきた以上、死を受け入れなければなりません。しかし、日常で死を意識することはありません。今日と変わらない明日が来ると疑問なく信じています。死を考えながら生きるストレスに人は耐えられません。考えないのは、生きるための防衛本能だろう。

 生まれてきたからには誰でも生きていること自体が余命ですが、いつ訪れるか分からないことで忘れられます。しかし、想像できる近い未来に死が訪れることを知った時、死を考えない訳にはいかない。

 死が全てを終わらせるのならば、今生きている意味があるのかどうか。今日と同じ明日、今年と同じ来年が来ないことが分かると死がリアルに感じられます。その恐怖はどれほどか分からない。いつか死ぬと分かっているだけでは感じることのできない恐怖です。

 単純に死を受け入れることではなく、予期していなかった死を受け入れることが難しいのだろう。誰でも生きていることを当然と思って生活しています。特に、雫の年齢では死は遠い存在です。いきなり突き付けられれば何も考えられない。自暴自棄になるだろう。

 死を受け入れるかどうか関係なく死はやってきます。抵抗できません。受け入れずに死んでいくか。受け入れ、人生に納得し、死んでいくか。どちらかしかありません。受け入れても人生に納得できるかどうかは別かもしれませんが。

 死を受け入れることは、生きることを諦めることなのだろうか。そうではないだろう。死を受け入れるからこそ、残りの人生に意味を見出せる。死までの時間をどのように使うか。生きている限り人生を全うしようとすることが大事なのだろう。残された時間で何もできないかもしれませんが、できる可能性もあります。後悔と何故自分がという思いだけで生きていくことの虚しさを知っていくのだろう。死を受け入れられるからこそ生が輝くのかもしれません。

 必ずしも余命宣告を受け入れた人たちだけが考えることではありません。生きている人々は、誰でも死について考えることができます。考えることで生について考えることができます。そのことで人生は変わるだろう。

 

きる糧

 残り少ない人生を生きるためには、直接的な欲求も必要です。生きてきた意味を考えるだけでは生きていけません。明日に楽しみを抱かないと辛い。それが食べることであり、おやつでもあるのだろう。食べることは生きることそのものであり、食べることを求めるのは生きることを求めるのと同じです。

 末期がん患者にとって活動の制限は避けられません。しかし、食べることは生きることと同様に大切なことです。いずれ食べることもできなくなるのですが。

 雫にとって食事は生きていることを実感させるものです。おいしくて楽しみなものであれば、生も充実します。食事で幸せを感じることができるのは自然なことであり、それを維持していくのが大事なことです。

 ライオンの家が食事を重視するのは、それが生きることに直接的に繋がるからだろう。本当においしいものを食べた時に感じる幸せは、他の煩わしいことをその瞬間だけでも忘れさせてくれます。

 おやつの時間はどうだろうか。人生で一番食べたいおやつを考えることは人生を振り返ることにもなります。おやつに抱く思い出は、人生を彩ってくれたものです。おやつの味ではなく、おやつに関わる人々の思い出です。おやつを考えることで最も大事な人を思い浮かべます。自身の人生にとってかけがえのない人がいることを思い出すのだろう。死ぬ時はひとりですが、ひとりで生きてきた訳ではないことを知ります。

 マドンナはおやつに纏わる思い出を朗読します。おやつに関わる人々の物語でもあります。リクエストした人はもちろん、それを聞いている人たちの心にも何かをもたらします。おやつは食事と違い、生きるために必ず必要なものではありません。しかし、あるのとないのでは人生の彩りが違うのだろう。

 おやつの時間は実際的な楽しみに加え、人生を振り返る場です。生きる糧と生きる意味の両方をもたらすのが食事とおやつなのだろう。 

 

実と夢

 雫の容態が悪化してから、夢と現実の境界が曖昧になっていきます。どれだけ痛みをコントロールしていたとしても、現実は辛い状況です。夢の世界にいる時間が長くなっていく。彼女の死が近づくにつれ曖昧になっていく現実と夢の境目は、生と死の境目の曖昧さに繋がっていきます。

 雫が見た母や六花の飼い主たちは、彼女の夢の中の出来事だろうか。それとも死の向こう側にある世界と繋がっているのだろうか。より現実的に物語を捉えれば、全て彼女の夢です。しかし、死の向こう側にある世界を誰も否定はできません。死が全ての終わりなのか、それとも通過点なのか。通過点だとすれば、死を恐れる必要はありません。その先にも世界があるのだから。

 現実と夢が入り混じるようになってからは、物語全体が何か薄い膜に覆われたように見えます。雫自身が現実と夢を区別しきれていないのだろう。夢と現実が入り混じることで、辛い現実であっても穏やかに受け入れています。

 一方、梢が見ている雫は何だろうか。雫は本当に梢たちの食卓に現れたのだろうか。雫は生きてきた意味を見出したのだろう。それを伝えるために梢たちの食卓に現れたのかもしれません。

 死という現実的なものを描きながらも不思議と恐ろしさを感じません。彼女が生きてきた意味を理解したことが伝わるから恐ろしさを感じないのだろう。

 

終わりに

 後半は、登場人物たちの心象が物語の中心になります。心の内だけを抜き取ったような描き方です。現実的なエンディングを求めていると、少し違和感があるかもしれません。雫の死後の描き方は都合の良い展開にも感じます。

 しかし、心象に焦点を当てて描くとなれば、現実的な舞台は必要ないのだろう。彼女が生きてきた人生の意味を語る時、彼女の死後の方が説得力があります。死後か夢か分かりにくいところもありますが。

 終盤の混沌とした彼女の意識下の出来事は、彼女の心の奥を垣間見ていると感じます。