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『蜜蜂と遠雷』:恩田陸【感想】|文字から音楽が溢れ出る

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 史上初の直木賞・本屋大賞のW受賞作。ピアノコンクールの物語なので、引き込まれるかどうか疑問を感じながら読み始めました。何故なら、私はクラシックが詳しくありません。正直、ほぼ知らないと言っていい。曲のタイトルを聞いてもイメージできない。単行本の目次の後に、本作で登場する曲の一覧が掲載されています。聞いたことのある曲も含まれていますが、ほとんど知らない。聞いたことがあっても、果たしてどんな曲だったのか思い出せない。

 読み始めると、それが杞憂であったことが分かりました。曲を知らなくても、どんどん引き込まれていきます。もちろん曲を知っている方がいいに決まっています。作中で登場する曲をイメージしながら読み進めることが出来れば、きっと引き込まれ方が違うでしょう。しかし、知らなくてもこれほど引き込まれ、ページを捲る手が止まらないとは想像もしていませんでした。 

「蜜蜂と遠雷」の内容 

私はまだ、音楽の神様に愛されているだろうか?ピアノコンクールを舞台に、人間の才能と運命、そして音楽を描き切った青春群像小説。【引用:「BOOK]データベース】 

「蜜蜂と遠雷」の感想

人のピアニスト

 4人のコンテスタントと審査員である嵯峨三枝子の視点が中心となり、物語が進んでいきます。他にも、明石の元同級生の仁科雅美などの視点が加わることもありますが。4人のコンテスタントは、

  • 著名なピアニスト「ユウジ・フォン=ホフマン」に師事していた塵。彼は自分のピアノすら持たない。
  • 天才少女として世間の注目を浴びていたが、13歳の時、母の死をきっかけにピアノから遠ざかっていた栄伝亜夜。
  • 誰もが才能を認めるジュリアード音楽院の天才、マサル・カルロス・レヴィ・アナトール。
  • 楽器店勤務の会社員でありながら、ピアノに対する情熱を持ち続け、生活者の音楽を体現したい高島明石。

 明石以外は、ピアノを弾くために生まれてきた天才たちと言えます。一方、明石も十分過ぎるほどの才能を持っているのでしょう。しかし、天才と呼べるかどうかとなれば、塵たち3人とは一線を画すのだと思います。彼自身も、そう思っています。だからこそ、ピアノを弾くことで生活の糧を得るプロのピアニストたちに対抗心を燃やす。

 ただ、明石が抱いているのは敵対心ではありません。また、塵たちに対する対抗心というよりは、世間に対する対抗心のように感じます。彼は、天才たちの音楽を認めています。その上で生活者の音楽も認められるべきであり、決して彼らに劣るものでないと信じているのです。音楽は天才たちだけのものでないと証明したいのだと思います。

 塵たち3人も、天才と一括りできるような簡単な存在ではありません。彼らもそれぞれ違う人生を歩んできているのですから。本書は、2週間に亘る「芳ヶ江国際ピアノコンクール」を舞台にしていますが、描かれているのは2週間ではありません。ここに至るまでの彼らの人生を描いています。

 彼らは若い。最年少の風間塵は16歳。最年長の高島明石ですら28歳に過ぎない。人生経験という意味では、それほど多くを経験しているわけではないでしょう。しかし、彼らの人生は、ピアノそのものです。ピアノとの距離が開いていた亜夜ですら、ピアノを意識せずに生きてきた訳ではありません。彼らは若いが、ピアノと過ごした濃密な時間があります。そのことが、彼らの人生を深く濃く感じさせます。同じコンクールの同じ舞台に立っていますが、背負っているものは違います。同じ舞台に立っているからこそ、今までの人生の違いが際立つのかもしれません。 

章で音楽が聞こえる

 文章で音楽を表現し、なおかつ読者に伝えるのは難しい。著者自身の感じるところにより表現していくことになるのでしょうが、ともすれば独りよがりになりかねない。音楽は感覚に訴える芸術です。文章で感覚に訴えるには、どのようにすればいいのか。どのような手法を用いれば、文字を追っていくだけで頭の中に音楽が自然とイメージされていくのだろうか。しかも曲を聴いたことのない人にまで音楽を感じさせないといけない。はっきり言って至難の業だと思います。

 私は、本書に登場する曲をほとんど知りません。曲名を見て頭の中に流れてこない。著者が表現しているイメージが、果たして曲と合っているのかどうかは分かりません。また、文章を読んでも曲が頭に流れてくる訳ではありません。しかし、何となく伝わってくるのです。彼らが弾いている曲が、一体どのような曲なのか。彼らが、どんな思いで曲を解釈し表現しているのか。 

彼らが弾く曲が頭の中に流れることはないですが、曲が持つイメージが頭の中を埋めていきます。

 何故、そのようなことが起こるのだろうか。使っている言葉、比喩的表現、コンテスタンや聴衆の反応。様々な要素が絡まり合っているのでしょう。著者の表現力の素晴らしさだと思いますが、その素晴らしさの原因は何なのかははっきりと分からない。特定の表現技術でなく、あらゆる要素が影響しているのだと感じます。単に曲を表現する文章だけでなく、登場人物の性格や言葉、コンクールの緊張感、審査員の評価。全てが曲を表現する要素となっています。もっとも、曲を表現する文章が素晴らしいのが、一番の理由なのは間違いないですが。

 登場する曲のほとんどを知らないのに、惹き込まれていく不思議さを感じながら読み進めていってしまいます。曲を知っている人は、果たして著者の表現をどのように感じたのか気になります。 

であり同志

 物語の舞台は、勝ち負けが存在するコンクールです。コンテスタントたちは練習してきた成果を発揮し、予選を勝ち抜き、本戦へと進んでいくために演奏しています。勝負の存在は、場合によっては、他のコンテスタントの失敗を望んでしまうことも有り得ます。ピアノという美しい音楽を扱いながら、勝負を組み込むことで世俗的になりかねない。芸術と勝負は、果たして相容れるのかどうかは根源的な問題かもしれません。また自分自身が100%の力を発揮することは当然ですが、勝ち進むための駆け引きも必要になってきます。美しい音楽の裏に計算が潜む。そうなってしまうと、彼らが弾くピアノに純粋さを感じなくなってしまいます。

 しかし、彼らに共通していて言えるのは、音楽に対して真摯であり正直であり真っ直ぐであるということです。コンクールなので勝ち負けは重要です。マサルと明石は勝ち負けを意識しているところもありますし、曲の選択や演奏順を気にしているところもあります。だからと言って、彼らは人の失敗を望まない。どちらかと言えば、他のコンテスタントが見事な演奏をするのを楽しんで聴いています。勝ち負けよりも素晴らしい演奏を聴くことの方が重要だというばかりに。裏返せば、自分自身も素晴らしい演奏をしたいということに繋がるのでしょう。自らを信じているから勝ち負けに汲汲としない。彼らの真っ直ぐな気持ちが読んでいてとても心地よい。 

終わりに 

 才能豊かなピアニストの厳しい勝負の世界を描いている作品だと想像していました。 舞台がコンクールなので勝ち負けはあります。一次予選、二次予選、三次予選、本選と勝ち進んでいくことが出来るのは僅かな人間です。キリキリとした戦いが描かれている緊張感溢れる作品だと思っていたら、意表を突かれました。コンクールの緊張感はあるのですが、それ以上に音楽に対する彼らの姿勢、謙虚さ、人生。様々な要素が描かれています。彼らの音楽に対する敬意を感じます。

 ピアノとともに生きてきた彼らの人生が、曲とともに伝わります。登場する全ての人に悪意がない。爽やかな読後感を味わうことが出来る。コンクールの結果も納得してしまう順位です。むしろ、これ以外の順位はないのだろうと感じます。