こんにちは。本日は、2020年本屋大賞第8位、知念実希人氏の「ムゲンのⅰ」の感想です。
2018年と2019年に続き、3年連続で本屋大賞にノミネートされています。医師である著者が描く作品は、医療が舞台になることが多い。本作は「イレス」という原因不明の病気に立ち向かう医師が主人公です。
冒頭は、現実世界を舞台にした医療ミステリーです。読み進めると現実的な世界から徐々に非現実な世界へと移ります。ファンタジーを意識した内容です。イレス患者が物語の中心ですが、展開はファンタジックに進みます。
前半と後半では、物語の雰囲気もかなり違ってきます。当初の目的は、四人のイレス患者を眠り(昏睡)から目覚めさせることと、主人公「識名愛衣」が過去のトラウマを克服することです。
彼女のトラウマは二十三年前の事件が原因です。イレス患者を救う過程で彼女自身の心が恢復していくのだと予想しながら読んでいると、後半の展開の意外さに意表を突かれます。患者の昏睡にはそれぞれ謎がありますが、それを上回る謎が隠されています。
「ムゲンのⅰ」の内容
眠りから醒めない四人の患者、猟奇的連続殺人、少年Xの正体。すべては繋がり、世界は一変する。【引用:「BOOK」データベース】
「ムゲンのⅰ」の感想
ファンタジーの世界観
イレス患者を治療し、目覚めさせることは医療です。どこまでも現実的に書こうと思えば書ける内容です。しかし、二十三年前の事件や連続通り魔殺人などを絡めることで、イレスの原因が医療の世界に留まらないことを予感させます。
愛衣の祖母から伝えられる「ユタ」「マブイ」「マブイグミ」「ククル」と言った言葉がイレス患者と結びつき、非現実の世界へと繋がっていきます。愛衣はユタとして覚醒する前に夢幻の世界に入り込む。彼女が現実のものとして受け入れ、成長していく過程が重要なのでしょう。
夢幻の世界はイレス患者それぞれの闇や傷が表現された世界です。愛衣が受け持った患者は、「片桐飛鳥」「佃三郎」「加納環」の三人。彼女たちの世界は、それぞれの苦しみから成り立っている。
イレスになった原因は彼女たちの人生にあり、目覚めさせる答えも人生にあります。夢幻の世界は断片的・抽象的に人生を描きます。目覚めさせるための方法は原因を取り除くことであり、人生を見つめ直すことです。予想できない世界の中で答えを見つけなければならない。脈絡のない世界で脈絡のある人生を求めていきます。
夢幻の世界はどこかで三人を象徴します。最も苦しい出来事はどこにあるのかを探すので、必然的に明るい世界にはなりません。悪夢の中を彷徨うことで、愛衣自身も苦しみに晒されることになります。
イレス患者ごとで全く違う世界が広がります。全てがファンタジー(幻想)ですが、ユタである愛衣にとっては現実として受け止められている。そのことが物語の結末で謎のひとつになるのですが。
ファンタジーに入り込めるかどうかで、物語を楽しめるかどうかが決まります。愛衣にとって都合の良い展開もあるので、多少は目を瞑る必要もあります。
家族の愛の物語
タイトルの「ⅰ」は主人公「愛衣」と「愛」の両方を表しているのでしょう。夢幻の世界に入る愛衣と無限に広がる愛です。愛衣自身の複雑な人生の経緯と三人のイレス患者の人生を描くことで、家族の愛を描いています。三人の昏睡は家族の愛が根本にあります。
片桐飛鳥
飛鳥の苦しみは父との愛が原因です。純粋で壊れるはずがないと信じていた愛に裏切られた衝撃と苦しみが、彼女のマブイを弱らせます。愛の大きさが失意と苦しみの大きさに直結します。苦しみが自身の存在自体の否定へと繋がるのでしょう。
愛衣は夢幻の世界で壊れたものを元に戻すのではなく、もともと壊れていなかったことを証明します。元の状態に戻すという意味ではどちらも同じですが、意味は全く違います。飛鳥は心の奥底で父を信じていたのだから、愛は一度たりとも壊れてはならないのです。
佃三郎
妻との愛が人生の原動力であり、彼の生きている意味そのものです。正しいことをすることで、妻との愛の存在を証明します。彼の人生はまさしくそのためだけに存在していたかのようです。しかし、一つの失敗が彼に苦しみを与えます。
人生をかけて積み上げてきた正しいことが、たったひとつの失敗で崩れさっていくものでしょうか。人生において失敗は起こり得る。弁護士として活動していれば、必ずしも結果が得られるばかりとは限らないはずです。佃も自身の行動が必ず正しい結果をもたらすとは思っていないのではないか。
では、何が彼を苦しめたのか。信じたはずの正義に裏切られたからでしょう。無実を信じた久米が真犯人だったことは、信じた相手に裏切られた苦しみをもたらした。信じたこと自体が間違っていた過ちに苦しんだのでしょう。
彼は正しいことをできなかったが、そのことで妻が佃を見放すとは思えません。もしそうだとすれば彼らの愛は脆い。妻が信じていることをすることが佃にとっての愛の証明だとすれば、一方的な思い込みかもしれません。
久米が犯人かどうかは、その後のミステリーに大きく影響します。そのための布石であり伏線です。
加納環
加納環の愛は、母への愛です。ピアノを通じた母との愛情や信頼は、早い段階で無くなってしまいます。「ピアノへの愛=母への愛」だとすれば、ピアノへの愛が変質して誰かをねじ伏せる手段に変わったことで、母への愛も変質し一種の憎しみへと転じたのでしょう。
ピアノが弾けなくなることは、自身の存在の意味を失います。存在の根拠が無くなれば、あらゆる感情は無意味になります。久米と出会うことで新しい愛を得て、意味を取り戻します。愛を得ることは、愛を知ることであり、思い出すことです。母への愛もかつてあったことを思い出します。
愛衣によって彼女たちは愛を取り戻します。一度壊れたものを自身の力だけで取り戻すのは難しい。自身で壊したものならなおさらかもしれない。しかし、きっかけさえあれば可能なことなのでしょう。愛衣はきっかけを与えます。加納環の夢幻の世界は物語のミステリーも大きく動かしていきます。
二十三年前からの因縁
謎は、愛衣の二十三年前の事件が発端になっています。
- 少年Xは誰なのか
- 連続殺人の犯人は誰なのか
- 四人目のイレス患者は誰なのか
イレス患者が昏睡に陥った理由はマブイグミで描かれています。問題は、何故、一度に何人ものイレス患者が発生したのか。背後に何かが蠢いているのか。
あらゆる要素がどのように絡まり収束していくのでしょうか。鍵は二十三年前の事件にあることは分かります。愛衣がマブイグミを行う過程で謎が現れ、繋がろうとします。
少年Xが現在の愛衣の周囲にいるならば、彼女は二十三年前の事件から逃れられていない。愛衣自身の内面においても、二十三年前の事件は心に傷を残しています。父と祖母との生活は、母の喪失を和らげることはできても無くすことはできません。彼女の愛はイレス患者たちと同様、自力では再生できないものかもしれません。彼女の傷から始まる物語は、彼女の傷の原因を取り除くための物語です。
三人のイレス患者を助けることで、自身の傷を癒していく。本当の苦しみは、時間が解決しないのでしょう。愛するものを失った苦しみは時間が和らげることはあっても無くならない。カウンセリングもひとつの手法ですが、原因を解決することはできない。そもそも死んだ者は生き返りません。
二十三年前の因縁を現在に伝えているのは何なのでしょうか。物語の背後に潜む大きな悪と闇が徐々に広がり、三人のイレス患者を通じて愛衣に迫ります。全てが二十三年前の事件へと繋がりはじめます。謎は大きく膨らみ、一点へと収束していきます。
展開のスピード
ファンタジーは前提や設定が納得できなければ引き込まれません。イレス患者を救う方法として、マブイやククルの存在・マブイグミの方法などが納得できるかどうかです。成り立ちを理解し、それが存在する目的や理由も、物語中で徐々に明かされていかなければなりません。飛鳥と佃の夢幻の世界でマブイグミが描かれていきます。愛衣がマブイグミを理解することで読者も理解するのでしょう。
上巻はマブイグミを通じて、イレス患者たちの謎を解いていきます。イレス患者を救うことの難しさは分かりますが、冗長に感じる部分もあり、読み疲れます。愛衣は右も左も分からないから仕方ないのかもしれませんが。
佃のマブイグミの終わり頃から環のマブイグミにかけて、物語は大きく動き、謎が深まっていきます。本作のミステリーはそこから始まると言っていいのかもしれない。展開のスピードが上がります。新しい展開は新しい謎を生みます。複合的な謎の重なり合いで読者は惑わされていく。ミステリーの醍醐味です。
大きな謎は少年Xの正体と四人目のイレス患者です。二人の絡まり合い方次第で物語は大きく変わります。予想できる可能性はいくつかあります。
後半になれば、前半に仕組まれた伏線にも気付きます。そのために必要な前半部分だったのかもしれませんが、もう少しテンポの良い前半部分であったならという思いが残ります。
終わりに
結末の展開は面白いが、夢幻の世界には都合の良さも感じます。ミステリーらしくするための展開を作っているように見えます。三人のマブイグミが彼女自身のマブイグミへ繋がる怒涛の展開が都合の良さを感じる部分です。
納得感はありますが、どこまで辻褄があっているのかも分かりづらい。どこか物足りなさを感じるのは、長編の割に内容が薄いからでしょうか。ミステリーと愛とヒューマンドラマの全てが中途半端に感じてしまいます。