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『熱源』:川越宗一【感想】|降りかかる理不尽は「文明」を名乗っていた

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 こんにちは。本日は、 川越宗一氏の「熱源」の感想です。

 

 第162回直木賞受賞作。2020年本屋大賞第5位。

 民族・文明・国家など多くの要素を含んだ重厚な作品です。樺太アイヌという国を持たない民族が、国家や文明に翻弄されていきます。人として、また民族としてのアイデンティティはどのようにして保たれていくのか。どのようにして失われていくのか。

 物語は大きくふたつの視点で描かれます。樺太アイヌの「ヤヨマネクフ」とポーランド人の「ブロニスワフ・ピウスツキ」です。どちらも大国や文明に脅かされてきた人です。ピウスツキはすでに自国を失い、独立した民族としての存在を許されていません。樺太アイヌは、自分たちの存在を失おうとしています。

 時代背景は日露戦争前から第二次世界大戦終戦時までです。世界が激動し、国家が争いを続けた時期です。地球規模で情勢が動く時代。樺太や北海道のアイヌと言えども無関係ではいられません。

 ポーランドは力及ばず国家としての独立を失いましたが、アイヌはそもそも国家として存在していない。同じ土台で考えることはできません。しかし、民族のアイデンティティの喪失という観点から見れば、立場は同じかもしれません。 

「熱源」の内容

故郷を奪われ、生き方を変えられた。それでもアイヌがアイヌとして生きているうちに、やりとげなければならないことがある。北海道のさらに北に浮かぶ島、樺太(サハリン)。人を拒むような極寒の地で、時代に翻弄されながら、それでも生きていくための「熱」を追い求める人々がいた。明治維新後、樺太のアイヌに何が起こっていたのか。【引用:「BOOK」データベース】  

 

「熱源」の感想

イヌのことを知る

 最初に感じたのは、アイヌのことを全く知らないということです。言葉は知っていても、それ以上のことは何も知らない。どのような文化を持ち、どのような生活を営み、どのような歴史を辿ってきたのか。そして現在はどうなっているのか。

 本作は樺太アイヌが中心なので、北海道アイヌはあまり語られません。樺太が描かれるのは、日露戦争から第二次世界大戦にかけて激動したからだろう。国家を持たない少数民族は、世界の流れに抗うほどの力を持っていない。つらい時期だったのだろう。日本人の視点では意識的に見ようとしなければ、決して見ることのできない世界です。

 完全に外界を遮断して独自に生きていくことは難しい。アイヌは過去から日本と関わりは深かっただろう。作中で描かれているアイヌは、はるか昔からのアイヌの生活様式や慣習だけを引き継いでいるとは言えないだろう。日本人やロシア人と交流があれば生活も変わります。どんな民族であろうと全く変わらずに生きていくことはできません。アイヌを知るためには、彼らの歴史の変遷を知る必要があります。

 世界には多くの民族がいて、多くの国家があります。少数民族も多い。どの民族についても、私はあまり多くの知識を有していません。 知らずとも生きていけます。しかし、アイヌは日本と深い関わりがあります。アイヌのことをもっと知るべきだと思うし、知る必要があると感じます。 

 

境を引く

 樺太は住みやすい土地とは言えないかもしれません。だからこそ、アイヌを始めとする先住民族は独自の生活様式を構築してきたのだろう。何故、樺太をめぐって日本とロシアは争うのだろうか。

 国土を広げることは、住むこと以外にも大きな意味を持ちます。資源や領海の確保とともに、国家の力を示すという意味合いも大きいだろう。そこに暮らす人々のことは重要ではないのかもしれません。目的は国土にあります。樺太はロシアのものか日本のものか。あくまでも二国間の問題であり、アイヌたちは存在しません。そこにアイヌたちの苦しみや辛さがあります。

 国境は二国間の約束事に過ぎません。実際に線が引かれている訳ではない。自由な行き来を妨げられる理由はどこにあるのだろうか。日本人とロシア人のどちらと密接に関係すればいいのかも分からないだろう。

 国境が変わるたびに、アイヌの生活は変わらざるを得ません。日本人もしくはロシア人と運命を共にしなければならない場合もある。日本とロシアが国境を引き直すたびに、アイヌたちは何かを失っていきます。誰のものでもなかった土地だからこそ、アイヌたちはともに生きていけたのだが。

 誰の許可を得て、日本とロシアは樺太を奪い合うのだろうか。日露戦争から第二次世界大戦にかけて、樺太の価値が上がったということだろう。アイヌたちにとっては変わらぬ土地であっても、世界情勢が変われば国境という望まないものがやってきます。 

 

族のアイデンティティ

 アイデンティティという言葉の概念は分かりにくい。独自性と言えばいいのだろうか。アイヌとポーランド人のアイデンティティを、ヤヨマネクフとピウスツキが体現しているかどうかも分かりません。個人のアイデンティティと民族のアイデンティティが必ずしも一致するとは限らない。ただ、それぞれの独自性の一面なのは間違いありません。

 アイデンティティとは長い歴史で築き上げてきたものです。もちろん、変化していきます。変化自体も民族の独自性です。重要なのは、民族の内から現れる変化なのか、外圧による強制的な変化なのかです。自然発生的な変化はコントロールできます。望ましくないなら止めればいいし、望ましいなら加速すればいい。強制的な変化は止めることができません。変化は望ましくない状況から始まることが多い。望ましいと考えているのは、変化を求めている側です。

 民族に対する考え方は様々だし、アイデンティティの根拠として何に重点を置くかも人それぞれです。

 ピウスツキが抱くポーランド人の独自性は、言葉や国家の回復で成し遂げられます。ロシアから取り戻し、世界の中にポーランド人の立場を確立させることです。あくまでも国家が主体であり、国家があるからこそ独自の文化が守れると考えています。ロシアに敗北したことで失ってしまったものは力で取り戻す。

 ヤヨマネクフが抱くアイヌの独自性は、存在自体の独自性なのだろう。守ろうと意識するべきものでなく、自然に存在し受け継がれてきたものです。誰も奪いに来なければ、そこに存在し続けたのだろう。日本とロシアが樺太を得ようとしますが、アイヌには関係がありません。

 日本にしろ、ロシアにしろ、自分たちの都合の良いように作り変えていきます。言葉や生活様式は最も重要な独自性です。それらを奪われるのではなく、上書きされていきます。日本とロシアに悪意はないのかもしれません。そうだとしてもやってはいけないことです。自分たちが優れていると考えているから、アイヌを自分たちの文化や文明に引き入れていきます。それがアイヌのためだと勝手に考える。国力としての上下はあったとしても民族としての上下はありません。ただ、国力と民族の上下は同一視されることが多いのだろう。

 科学や産業の観点から見れば、文明が進んでいる国家の力が強いのは当然です。ただ、文明と文化は同一ではありません。文明が進んでいるからと言って、文化が優れている訳ではありません。両者を同一視してしまうと、文明を与えることは文化を与えることと同義になってしまいます。

 文明は生活を楽にします。その代償として文化を捨てなければならないのだろうか。統一化された文明の進歩は、均質化された文化を生み出します。アイヌの独自性が失われていくことは、日本の文化に吸収されていくということです。アイヌが無くなり日本になる。

 国家を持たないアイヌは、日本やロシアに対抗できません。独自性を維持することは難しい。アイヌの伝統を維持しつつ、日本やロシアの文明や文化を受け入れるしか方法はありません。両立は混じり合います。アイヌが自らの力で変わったのではない以上、アイヌの独自性は失われていくのだろう。 

「私たちは滅びゆく民と言われることがあります。」 

 この言葉はとても悲しくて、寂しくて、辛い。どういう気持ちでこの言葉を発したのかを考えると心が重くなります。

 

終わりに

 巻末に「この物語は史実をもとにしたフィクションです。」と記載されています。時代背景も現実のものです。どこまでが史実でどこからがフィクションだろうか。

 登場人物たちを調べていくと、多くの人が現実に生きていた人々です。書き出せばきりがありません。多くのことが史実に基づき書かれています。だからこそ、ヤヨマネクフやピウスツキが抱く思いに現実感と真実味があるのだろう。彼らが現実に生きていたからこそ、彼らの熱が伝わってきます。引き込まれ、心に響くのは、その熱のためだろう。

 ヤヨマネクフは大隈伯との会話で「一人の人間でさえなかなか死なないんだから、滅びるってこともなかなかない」と言っています。アイヌの生活と独自性は失われていくかもしれません。しかし、ヤヨマネクフを始めとするアイヌのルーツは消えてなくならない。アイヌの自覚と自負があれば滅びることはないのだろう。どの民族にも、誰にでも言えることかもしれません。