小説より前に映画を観ています。鑑賞したのは数年前ですが、小説を読み進めると映画の記憶も蘇ってきました。映画の記憶と小説が微妙に違うのは原作からアレンジされたのか、私の記憶違いなのか。ただ、小説にかなり忠実に製作されていたのだと感じます。もともと史実に基づいた話なので、映画になったからと言って骨格が変わることはありません。
小説自体はそれほどボリュームはないので一気に読み終えることが出来ます。文章のボリュームはないのですが、内容のボリュームがないという意味ではありません。登場する武将たちは、彼らの矜持に従い命を懸けて戦う。生き生きとした彼らの戦いぶりに目が離せない。
「のぼうの城」の内容
時は乱世。天下統一を目指す秀吉の軍勢が唯一、落とせない城があった。武州・忍城。周囲を湖で囲まれ、「浮城」と呼ばれていた。城主・成田長親は、領民から「のぼう様」と呼ばれ、泰然としている男。智も仁も勇もないが、しかし、誰も及ばぬ「人気」があった―。【引用:「BOOK]データベース】
「のぼうの城」の感想
史実の忍城の戦い
忍城は現在の埼玉県行田市です。私は歴史に詳しくないので、映画を観るまで「忍城の戦い」の存在も知りません。私の居住地から埼玉はかなりの遠方ということも理由です。無学の理由にはならないかもしれませんが。秀吉の北条氏小田原攻めの際、支城でこれほどの戦いが起こっているとは思いもよりませんでした。しかも豊臣方は、石田三成を始め大谷吉継、長束正家と有名な武将です。作中には登場しませんが、真田昌幸・信繁親子、直江兼続、浅野長政など数え上げればきりがありません。その武将たちが率いる圧倒的な武力の前に互角以上の戦いを繰り広げ、小田原城が落ちるまで落城することがなかった。しかも、岡山県の備中高松城、和歌山県の太田城に並ぶ日本三大水攻めのひとつに数えられる水攻めに耐えて。
そもそも三大水攻めと言われても備中高松城は思い浮かびますが、ほかのふたつは思い浮かばない。備中高松城は、秀吉が描かれる小説や映画・ドラマでは必ず取っていいほど登場します。その後の中国大返しの繋がる場面ですので。太田城はそれほど注目されていないのだろうか。それとも私が知らないだけなのだろうか。
私にとって和歌山市は極めて近い場所なのですが。
忍城攻めは秀吉でなく石田三成が総大将であり、小田原攻め自体にも直接的な影響を及ぼしていません。小田原城が落ちたことで開城したことからも、忍城単体を守ることにあまり意味はないのかもしれません。あくまで小田原城の支城としての存在に過ぎなかった。だからこそ、それほど注目されなかったのだろうか。
太田城と忍城を知らないのはあまりに無学だと批判されることは覚悟はしています。しかし、知らなかったからこそ、映画や小説を楽しめたということも事実です。戦い自体を知らなかったし、忍城側の武将も知っている名前はありません。一方、豊臣側のそうそうたる顔ぶれには驚くばかりです。これらの武将を相手取り、戦いを繰り広げていく。必ずしも、石田三成に悪いイメージを持ってません。忍城側を応援してしまうのは、判官びいきによるところが大きい。忍城が開城することは史実なので変わりようがありません。ただ、そこに至るまでの間には多くの出来事があったはずです。歴史は結果だけを見るのではなく、そこに至る過程が重要です。過程を知れば、結果にも納得できます。
個性豊かな武将たち
豊臣方の武将は、少なからずイメージを持ち合わせています。ただ、必ずしもそのイメージが正しいとは限りません。言い方を変えれば、正しいかどうかではなく人は変わるということです。私が抱いている彼らのイメージは、ある意味正しいと思います。しかし、そのイメージが彼らの人生を通じて一貫しているかどうかは別問題だと思います。
例えば石田三成に対するイメージは、秀吉死後、家康との確執や関ケ原の戦いに至るまでの間の出来事での印象が強い。その部分が描かれることが多いからでしょう。少し遡っても、すでに豊臣内部での派閥争いを起こしている時期を描いています。大谷吉継についても、同時期の印象がほとんどです。しかし、本作における彼らはまだ若い。三成の忠誠心や潔癖さは終生変わらなかったとしても、若さの残る真っすぐさを感じます。大谷吉継においても、まだまだ甘さが残る印象を受けます。多くの読者が既にイメージを持っている武将たちをいかに描くか。
- イメージを壊すほどの新しい一面を作り出すのか。
- 将来起こるであろう様々な歴史的事件と結びつくようにイメージを作るのか。
本作においては、後者の印象を受けます。既に抱いているイメージをひっくり返すほどのインパクトは感じません。しかし、関ケ原での石田三成や大谷吉継をそのまま使わずに、将来そこに至るだろうと思わせる印象を与えてきます。
一方、忍城側の武将についての予備知識は全くありません。総大将・成田長親を始め、正木丹波守、柴崎和泉守、酒巻靱負。この4人が主軸ですが、彼らの性質は様々な場面を通じて描かれています。外見的特徴から話し方、性格、関係性などが詳細に描かれる。かと言って説明っぽくなる訳ではないので、物語を妨げることもありません。
歴史小説とりわけ戦国時代は登場する人物の魅力が、物語の迫力や引き込まれ方を左右すると思っています。魅力ある人物像が出来上がるかどうか。それにより物語の出来も圧倒的な違いが出てくるでしょう。忍城は武将たちだけでなく、百姓たち領民も重要な役割を担います。そして、彼らを動かすために長親の役割が重要になる。戦いに出る丹波たち以上に長親の描き方は難しい。彼の登場する場面は、戦場のような分かりやすい状況ではありません。長親の個性を強烈に印象付けるのは難しいはず。しかし、忍城の中で一番印象に残ったのはやはり成田長親でした。
フィクションとして
史実に基づいた忍城の戦いを描く。石田三成の水攻めや忍城の開城。戦いの発端から結末までは、歴史の事実として決まっています。結末が分かっている戦いに、いかに読者を惹きつけていくのか。
先ほど書いたように登場人物の個性が重要です。個性は彼らの言動や心象を描くことで際立っていきます。歴史の事実として決まっているとしても、数多くのドラマがあるはずなのでフィクションとして描ける部分は多くあるはずです。武将たちの心象を描けば、彼らの武士としての矜持が描かれる。その時代の武士の有り様を見せつけられる。そうは言っても全ての武将に矜持がある訳でもないでしょうし、心の拠り所とするものも違います。
- 戦場で強者と相対し、勝負を挑むことで武士としての生き様を示す者。
- 戦略を以って実力を示さんとする者。
- 目的を果たし、忠誠心を示そうとする者。
一言で武士と言っても何もかもが違う。長親はとりわけ異質な存在です。彼を表現する言葉を探しても、なかなか思い浮かびません。だからこそ、成田長親という人物に底知れない魅力を感じるのかもしれません。
忍城の戦いに参戦した武将たちは、それぞれの思いを持って戦場に臨んでいます。彼らの心象や言動を描くことで、史実にはない興奮を感じることが出来ます。著者の描く登場人物たちは、果たして現実の彼らと同じなのか。それは分かりません。しかし、現実に拘る必要もないでしょう。小説なのですから。
終わりに
忍城の戦いは、いわば局地戦です。秀吉の小田原攻めに大きな影響を与える戦いではない。忍城を開城させることが目的でなく、開城させることによって三成に武勲を上げさせるための戦いに過ぎません。 内通によりもともと落ちるはずだった城を、三成の策略で戦へと導いた。
三成は果たして何を目的にしていたのか。結果を出すだけなら、戦いを起こさず開城させれば良かったでしょう。しかし、三成が望んだのは武将としての才覚を示すこと。そのためには戦を起こさなければならない。自らの采配で勝たなければならないと考えていたのでしょう。
史実では、水攻めは三成の考えでなく秀吉の命令により実行されたようです。三成はどちらかと言えば反対していた。本作の全てを史実として受け止めることは出来ないと思います。描かれていないのであれば問題ないですが、史実と違う描かれ方がされていることもあるようです。ただ、そんなことを考えずに引き込まれて楽しめる小説です。少し物足りない部分もあります。もともとが映画を前提に執筆されているので、2時間に収まる範囲での描かれ方だったのでしょう。そこだけが残念です。