画家「フィンセント・ファン・ゴッホ」の物語。2018年本屋大賞の第4位に輝いています。フィンセントの物語ですが、彼の視点で彼の人生が描かれている訳ではありません。フィンセントの弟「テオドルス・ファン・ゴッホ」とパリ在住の美術商「加納重吉」の視点で描かれています。単行本の最後には、「この作品は史実をもとにしたフィクションです。架空の人物に特定のモデルは存在しません。」と書かれています。歴史的な事実とフィクションの融合。どこまでが事実で、どこまでが作られたものなのか。その境目が分かりません。架空の人物も登場し、現実に存在した人物と関係を持ちながら物語が進んでいます。
フィンセントやテオ(テオドルス)、林忠正は実在のようです。ただ、物語の語り手の一人である加納重吉は、架空の人物です。当然、加納重吉が絡むシーンはフィクションです。また、歴史的事実は事実として書けます。しかし、フィンセントやテオ、林忠正の心の内や何気ない日常の出来事は残った手紙や資料から推測は出来ても、必ずしも事実ではないかもしれない。しかし、そういうことを感じさせないほどリアリティに溢れ、引き込まれる作品です。
物語は、1962年のオーヴェール=シュル=オワーズから始まります。ただ、この章は、ゴッホが亡くなった年から72年後です。物語のプロローグとしての位置付けでしょう。ここで登場する人物、そして彼が持っていた手紙の意味。それは、物語が進むにつれ明らかになっていきます。
「たゆたえども沈まず」の内容
19世紀末、パリ。浮世絵を引っさげて世界に挑んだ画商の林忠正と助手の重吉。日本に憧れ、自分だけの表現を追い求めるゴッホと、孤高の画家たる兄を支えたテオ。四人の魂が共鳴したとき、あの傑作が生まれ落ちた―。【引用:「BOOK」データベース】
「たゆたえども沈まず」の感想
林忠正と加納重吉
加納重吉が、架空の人物であることは書きました。なので、重吉と忠正の関係は全てフィクションと言うことです。敢えて重吉を登場させたのは、何故なのか。それは、パリで活躍した美術商「林忠正」を客観的に描くためではないでしょうか。忠正はパリに日本美術を紹介し、ジャポニズム旋風を巻き起こした立役者です。パリにおける日本美術の中心人物です。そんな彼の視点で描くと、彼の動きや考え方が際立ってしまう。フィンセントを描く上で、あまりに存在感が強くなりすぎるのかもしれない。そこで中立的で冷静に忠正を描くために、加納重吉という架空の人物を作り出したのだと感じます。加納重吉はパリに在住する先進的な日本人ですが、日本人的な要素も併せ持っています。
読者の視点となるには適切な存在なのかもしれません。
パリで日本人が認められるのが、どれほど難しいことなのか。日本人は特に外見的に難しいことのように感じます。そのことが、忠正の言動によって伝わってきます。重吉を通じて見る忠正。さらに忠正を通じて見るパリの美術商の戦いは、あまりに厳しい。そんな中、日本美術を紹介し、ジャポニズムという一大潮流を巻き起こした忠正の努力と才能が伝わってきます。重吉は、忠正を客観的に見るだけではありません。忠正とゴッホ兄弟の接点にもなっています。
忠正とゴッホ兄弟に交流があった事実は確認されていません。史実に残っていない架空の人物だからこそ、忠正とゴッホ兄弟の架空の交流を描くことが出来ます。史実に基づいた話でありながら、重吉を使いフィクションのストーリーも絡ませていく。しかも、その境目が全く分からない。単なるゴッホの生涯を描くことに留まらず、小説としての面白さが際立ちます。
フィンセントとテオ
フィンセントとテオの生い立ちや関係は、ほぼ事実に基づいているようです。ただ、場面場面で彼らが感じている心の内は、想像によるところが大きいでしょう。事実関係から察するに、それほど大きく乖離しているとは思いませんが。
19世紀後半のパリ美術は、大きな変革期です。忠正が持ち込んだ日本美術により、まずはジャポニズムが起こります。特に浮世絵は、モネやルノワールと言った印象派の画家に多大な影響を及ぼしています。また、その後登場するゴッホやゴーギャンも浮世絵に多大な影響を受けています。美術商であるテオはそんな変革期に身を置きながら、アカデミーの画家の作品を売り続けることに疑問を抱いています。しかし、テオにも生活があります。故郷の家族を養うために、今の仕事を失う訳にはいかない。美術に対する後ろめたさを常に抱いているように感じます。それに加え、フィンセントとの関係もテオを苦しめています。フィンセントに悪意があるとは思いません。
ただ、テオの重荷となっていることは伝わってきます。
フィンセントとテオの関係は、必ずしも良好ではありません。むしろ、どんどん悪い方向へと舵を切っていきます。しかし、フィンセントが今までに存在しない斬新な作品を描いた時に、テオはフィンセントを支えなければならないと感じたはずです。それでも、彼ら二人の関係は常に良好ではなかった。
何故なのだろうか。兄弟だからかもしれない。
離れることが出来ない関係だからこそ、適度な距離を保つことが出来ない。フィンセントを支えたいが、重荷でもある。また、離れることも出来ない。そんなジレンマがあったのでしょう。
フィンセントの作品は、彼とテオが生きている内に世間には評価されませんでした。フィンセントの作品を評価していたのは、テオと忠正、ジュリアン・タンギーなどの一部の人々だけでした。もちろん、重吉もですが。フィンセントが自殺(他説あるようですが)し、翌年テオが亡くなります。果たして、この兄弟は幸せだったのか。史実を見ると、必ずしも幸せとは言い難い。しかし、フィンセントが亡くなる前の数時間。二人が交わした会話は、二人の間のわだかまりを溶かしてくれたのだと信じたい。
重吉とテオ
重吉が架空の人物なので、忠正とテオ、フィンセントの交流は架空の物語になります。しかし、フィクションだからこそ想像が膨らみ、様々な思いを描くことが出来ます。重吉とテオは、心を許せる友人として描かれています。その二人の関係を軸に、フィンセントと忠正が描かれていきます。フィンセントと忠正が直接会話を交わす場面は限られています。しかしフィンセントが描く作品は、忠正に大きな影響を及ぼしています。フィンセントの作品を高く評価していたのは忠正です。重吉はパリで過ごしながらも、日本人的なメンタリティを失うことはありません。彼が持つ日本人のメンタリティが、テオに安らぎを与え二人を友人にしたのでしょう。
重吉は忠正とゴッホ兄弟を繋ぎ合わせるだけでなく、テオを人間味溢れる人物として描くために重要な役割を果たしています。重吉とテオの関係が深まれば深まるほど、テオの心の内が伝わってきます。重吉という日本人の目を通して伝わるテオとフィンセントは、読んでいて受け入れやすい。重吉が標準的な日本人のメンタリティを持っているからこそ、そこに映るゴッホ兄弟に共感できるのだと思います。
最後に
正直なところ、ゴッホで思い浮かべるのは「ひまわり」と「自画像」くらいしか思い浮かびませんでした。単行本の表紙「星月夜」は、物語中で重要な作品として扱われています。ゴッホという画家の生涯は詳しくは知りませんでしたが、耳を切ったエピソードや自殺したことなどは知っていました。この小説も史実に基づいているので、結末は分かっています。しかし重要なのは、そこに至る過程であり、ゴッホを取り巻く人々の思いであったりするのでしょう。史実は事実ですが、事実だけで人生を語るのはあまりに寂しくて物悲しい。
フィンセントやテオが抱いていた本当の思いがどうであったか分かりませんが、この小説に描かれている彼らは、現実のフィンセントとテオであるように感じます。
フィンセント・ファン・ゴッホ。
彼の作品を、彼の人生と重ね合わせながら見てみたいと思いました。もちろん、画集で見ることになるのでしょうが。