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『スプートニクの恋人』:村上春樹|あちら側にあるものは・・・

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 「スプートニクの恋人」を読むのは2度目です。1度目は相当に前なので、かなりの部分が記憶から抜け落ちていました。

 長編作品ですが、それほどボリュームはありません。一方、起こった事象に対して、原因となるものはあまり詳細に描かれません。読者の解釈や想像に任されている部分が多い。表現もどのような解釈も出来るような言い回しになっている印象です。

  • こちら側とあちら側
  • 現実世界と別の世界

 非現実が混じることで混沌とした物語になります。喪失と性が重要なテーマになるのは著者の作品らしい。というよりも、このふたつが著者の作品には欠かせなくなっているのかも。読み進めることは簡単ですが、著者の言いたいことを理解するのは難しい。 

「スプートニクの恋人」の内容

22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。【引用:「BOOK」データベース】 

「スプートニクの恋人」の感想 

ちら側とあちら側

 2つの世界を描くのは「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を思い出しますが、「スプートニクの恋人」ではあちら側の世界は描かれません。こちら側の世界と別の世界をあちら側と呼んでいます。こちら側は僕やすみれ、ミュウが生活する現実世界です。異世界のあちら側はどのような世界なのかはよく分かりません。

  • こちら側からあちら側に行くことで、こちら側には存在しなくなる。
  • こちら側に存在しなくなるということは、あちら側に行った可能性がある。

 こちら側とあちら側は、このように単純に割り切れる世界ではなさそうですし、自由に行き来できる世界でもありません。行くとしても意志的に行ける場所なのかどうかも微妙です。

 すみれは自身の意志であちら側に行きます。ミュウは半身だけが行き、半身は残されます。ミュウの場合は、行くことを望んだ意志と残ることを望んだ意志が内面に混在していた。一人の人間の中には様々な意思がありますが、人間はあくまでひとつの存在です。意識の中に絶対的に違う意志は存在しません。しかし、ミュウは半身だけが行きます。自身の意志で行った半身と残された半身が存在します。彼女の存在に異質なものがあったのでしょう。どちらにしても行きたいという意志があれば、あちら側の世界の門は見えるのかもしれません。その門を越えれるかどうかが難しい問題のようですが。

 あちら側に行くために必要なことは、ぼくが物語についてすみれに語ったことが真実なのでしょう。ぼくが話した物語に関するこちら側とあちら側の考えは次の通りです。

「物語というのはある意味では、この世のものではないんだ。本当の物語にはこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる」

「つまり、わたしもどこかから自前の犬を一匹見つけてこなくちゃいけない、ということ?」  

ぼくはうなずいた。 「そして温かい血が流されなくてはならない」 「たぶん」

【本文より一部引用】

 必ずしもミュウとすみれのことを言った訳ではありませんので、ミュウが経験したこちら側とあちら側とは関係がないように見えます。ただ区切られたふたつの世界を跨ぐ時には、同じことが言えるのかもしれません。比喩的か実際的かは別にして、あちら側に行くためには血が流されないといけない。

 では、あちら側とは何らかの暗喩なのでしょうか。半身のミュウとすみれが存在できる場所であり、あちら側に行った者はこちら側から消えるのであれば、実際的に存在するものとして考えることが出来ます。

 あちら側に行くというのはどういうことなのでしょうか。否定的なことかどうかは、意志を持っていくのかどうかによって違います。ミュウの半身は意志があったかもしれませんが、残った半身に意志はありません。そうなれば、一つのミュウとしては否定的な場所です。一方、すみれは自身の意志であちら側に行きます。すみれにとって、求めているミュウがいる場所は肯定的な場所です。あちら側自体はニュートラルな存在であり、そこに関わる人間次第だということです。

 こちら側とあちら側の世界には名前がありません。あくまで自身の場所から見た世界です。こちら側とは違う世界が存在することが重要であり、ふたつの世界が違う次元の存在ならば同時的に存在出来ます。あちら側がどういう世界か描かれていないことは、それほど問題ではありません。 

みれの求めるもの

 彼女が求めているのはミュウそのものです。すみれが今まで感じたことのない性欲の対象としても欲しています。彼女にとって性欲は初めて抱く感覚です。電撃的に恋に落ちる決定的な理由は描かれません。電撃的な始まりに理由を求めるのは難しいことかもしれません。

 何故、すみれがミュウを求めるようになったのかは重要な要素です。22歳まで恋をすることなく、性欲というものを知らずに生きてきた。ぼくとすみれは理解し合えていたかもしれませんが、少なくともすみれに恋愛感情は一切ありません。そんな彼女が何故、17歳年上の既婚の女性のミュウに惹かれたのか。

 性欲も恋愛も知らずに生きてきたすみれは、ミュウを見て抱いた特殊な感情を恋愛と性欲だと理解します。彼女はミュウに何を求めていたのでしょうか。もちろん現実的で実際的な性行為(女性同士なので厳密にはセックスではありませんが)を求めています。自分の感情を恋愛と性欲と思い込んでいたからこそ、すみれの求めた形が性行為へと繋がります。特別な感情を抱けば、特別な理由があるはずです。22歳のすみれにとって単なる好意以上の感情は抑えがたい性欲へと彼女自身によって変化させられます。無意識的に。

 すみれとミュウの関係は、後述「ミュウの罪」で考察しますが、彼女たちが母娘だったとしたら納得できる部分が多くなります。すみれがミュウに何かを感じたのは血の繋がりだった。ただ、血の繋がりだけでもなかったと思います。

 すみれとミュウは、すみれの従姉の結婚式で出会います。従姉の音楽の先生だったという話ですが、何故、すみれと同じテーブルなのでしょうか。しかも、すみれの父親とは違うテーブルになっています。通常、親族は同じテーブルです。人数の関係ですみれと父親が別のテーブルになったとしても、親族のテーブルに他のゲストが混じることは考えにくい。何らかの意図が働いています。すみれがミュウのことを知らないのであれば、ミュウがすみれを知っていた。ミュウはすみれに会うことを目的に披露宴に出席しているとすれば、ミュウと従姉との関係は真実ではありません。

 ミュウがすみれの母親であれば、すみれの父とミュウは過去に関係があったことになります。彼は、すみれの母親がミュウだということも分かっています。すみれの父の意図は描かれませんが、ミュウがすみれと出会うことを求めた。そう考えれば、すみれを何とか手元に置こうとすることも、すみれの能力以上の待遇で雇おうとすることにも納得出来ます。

 すみれは、母親に対する感覚を性欲だと思い込んだ。すみれの求めるものはミュウですが、その根底に流れているのは血の繋がりです。すみれが性欲の相手(恋人)として求めるには間違った相手です。すみれ自身に問題が有る訳ではありませんが、求めても手に入らないものです。ただ、ギリシャでミュウはすみれに応えようとします。性欲を失ったミュウはすみれの求めに応じることは出来ませんが、母親だとすると途中までとはいえ性の対象とされることを許すでしょうか。ミュウが母親だとすると納得できる部分とともに疑問が生まれることも事実です。  

ュウの罪

 ミュウがすみれの母親だという前提で考えます。ミュウとすみれの父親がどういう経緯で関係(恋人であったかどうかは分かりませんが)を持ったのか。ミュウは若い時は性に対して奔放であり、少なくない人と関係を持ったと言っています。その中の一人であったのかもしれません。すみれを産んだことを考えると、すみれの父親の子供を産みたいという感情があったのでしょう。

 ただ、当時のミュウはピアニストを目指しています。何かを犠牲にしてではなく、あらゆることを犠牲にしてピアニストになろうとしています。すみれを産むことは出来ても育てることは出来なかった。あらゆることの中に、すみれを手放したことも含まれていると考えられます。ピアニストを目指している間は、すみれのことも犠牲にした一つの事柄に過ぎなかったのでしょう。

 ピアニストの素質に限界を感じた時、ミュウは過去に犠牲にした全ての物事に対し向き合わざるを得なくなります。犠牲にした者たちに対する言い訳(正当性)を失ったからです。その中でも、すみれのことは最も大きな犠牲です。彼女にとってもすみれにとっても。

 スイスの町でフェルディナンドと出会った時に、すみれのことを思い出さずにはいられなかった。何故なら、フェルディナンドの容貌とすみれの父親は似ているからです。フェルディナンドに対し嫌悪感を募らせていくのは、すみれのことを思い出し、過去の自身の行動に対し嫌悪感を生むからかもしれません。一方、すみれの父親と過去に関係を持ったことも彼女自身の意志です。ミュウにとって、すみれの父親との性行為で得られた快楽もまぎれもない事実です。過去の即物的な快楽とその後の犠牲の間で、ミュウは身動きが取れなくなった。 

身動きできない状況が、観覧車に閉じ込められるという状況です。 

 ミュウが見たもうひとりのミュウは、ドッペルゲンガーです。同じ人物が同時に別の場所に姿を現す現象のことをドッペルゲンガーと言うのであればですが。フェルディナンドが実在の人物なら、痴態を晒すミュウも現実のミュウ自身です。どちらかが偽物という訳ではありません。ミュウは自身の中で快楽と犠牲を同時に受け入れることが出来なかった。だから、それぞれが半身となって別の存在になったのです。

 快楽に耽る自身の姿を受け入れられない。何故なら、快楽に耽ったことで、すみれという犠牲が産まれたから。快楽を与え続けるフェルディナンドは、ミュウが捨ててきた犠牲を刻み続けます。そのことがミュウを損ない続けるということでしょうか。

 ミュウはもう一人のミュウとともにあちら側に行くことは出来なかった。こちら側にすみれがいることが理由です。ミュウは二つに分かたれ、黒い髪と性欲と生理と排卵を喪失することを受け入れます。ミュウは半身になることで罪を背負い続けることにしたのです。彼女の罪は、こちら側とあちら側に分かたれたことです。彼女が世界の中で異質な存在として生きている理由でしょう。 

みれは戻ったのか 

 消えたすみれが、ぼくに迎えに来てほしいと電話をかけてきます。素直に読めば、こちら側とあちら側は行き来が出来るように見えます。血を流す必要があるのは、行く時と同様でしょう。

 あちら側に行ったのは、性欲を持ったミュウに会うためです。もう一つの半身のミュウに会い、性欲を満たし、恋人になる。すみれの最も求めていることです。あちら側で二人は結ばれ、こちら側に接触してくる必要もなくなります。こちら側の半身のミュウに未練はなくなります。

 何故戻ってきたのでしょうか。また戻れたのでしょうか。あちら側でミュウと結ばれなかったからです。ミュウに会えなかったはずはありません。すみれがミュウを探し出せないとは思えません。ミュウがすみれの母親だとすれば、戻ってきた理由が理解出来ます。すみれが恋人として求めていたミュウが母親だった。すみれの思いが遂げられません。そのことを理解した時に、すみれは血を流したのでしょう。

 すみれは「どこかわけのわからないところで象徴的に何かの喉を切ったんだと思う。」と言います。訳の分からないところはあちら側です。では、誰の喉を切ったのでしょうか。現実でなく象徴的に切ったと言っています。すみれ自身の喉を切ったのでしょうか。ミュウが母親であることが分かった時、自身の喉を切ったのと同じことに感じた。求めていたものに裏切られたことが象徴的に喉を切ったと表現しています。そのことで血を流し、こちら側に戻ってきます。すみれにとって唯一かけがえのない存在が「ぼく」だと気付いてです。

 すみれとぼくにとってうまくまとまり過ぎている気がしますが、戻ったと考えれば幸せな部類の結末でしょう。ミュウにとっては違いますが。 

プートニクの恋人は誰? 

  スプートニクの恋人は普通に考えればミュウのことです。本文中にも、「すみれが「スプートニクの恋人」に出会ったのは大学に退学届けを出してから2年少したったころだった」と書かれています。すみれはミュウのことを「スプートニクの恋人」と表現しています。片思いなので恋人と言えないかもしれませんが、すみれの願望があるのでしょう。

 一方、「スプートニク」をミュウだと考えれば、「ミュウの恋人」とも読めます。ミュウの恋人とは誰でしょうか。すみれの父親でしょうか。恋人関係だったのかどうかは分かりませんが、性的関係にあったのは間違いありません。

 フェルディナンドはどうでしょうか。ミュウの半身であったとしても、ミュウと性行為を行った。性行為=恋人ではありませんが、ミュウの半身の痴態を見れば恋人と言えるかもしれません。

 冷静に見れば、恋人関係(性行為だけの関係でなく)になった者はいないのではないでしょうか。結末ですみれとぼくは、お互いをひとつものとして認識します。そのことが即恋人とは限りません。ラブストーリーらしいタイトルでありながら、やはり性と喪失が主軸になるあたりが著者らしい。 

終わりに

 ミュウ=すみれの母という前提で考えてきました。この解釈が正しい(著者の意図に沿う)かどうかは分かりません。あらゆる場面において、比喩的表現で何かが描かれているような気がしてなりません。何かを暗示するかのように。そもそも表現が比喩的過ぎて理解しづらいところも多々あるのですが。

 現実と非現実の境目が明確でないところも解釈の多様性を生みます。フェルディナンドが実在の人物だとして、観覧車から見たフェルディナンド(ミュウと交わった)はこちら側に実在していたのでしょうか。町であったフェルディナンドが何らかの理由であちら側に行ってしまったのかもしれません。ミュウが見た二人の痴態は、あちら側の世界で行われた出来事に思えます。ミュウが分かたれたことで、あちら側の世界を覗き見することになります。あの瞬間は観覧車の中だけがこちら側で、全てがあちら側だった。あちら側に行かなかった半身のミュウだけが閉じ込められたことでこちら側に残れた。

 その場の状況の捉え方次第で、見方は様々になります。描かれていないことが多いからこそ現れる現象です。読者がどのように解釈するかは自由ですし、誰かに批判される必要もありません。私の書いてきたことも、誰かから見ればあまりに的外れかもしれません。また数年後に「スプートニクの恋人」を読み返した時、この感想を読んで笑ってしまうかもしれない。