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『有頂天家族』:森見登美彦【感想】|面白きことは良きことなり!

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 京都を舞台にした現実と非現実が混ざり合ったファンタジー。森見ワールドに引き込まれます。舞台は現実の京都でありながら、登場人物は虚構です。両者が混沌とする世界には不思議と違和感がありません。京都という土地の深淵さでしょうか。

 天狗と狸と人間が登場しますが、弁天を別にすれば人間はむしろ脇役です。狸が主人公であり、彼らは人間社会の中で生活しています。狸同士の関係の複雑さも面白い。

 矢三郎を取り巻く日常を描いていますが、日常と言っても平凡な日常ではありません。矢三郎の日常が、やがて彼の父「総一郎」の死の真相へと繋がっていきます。矢三郎に加え、弁天や赤玉先生の存在が物語を強烈に印象付けます。超個性的で魅力的な人物ばかりで、登場シーンが少ない者も一瞬で印象に残ります。

  • 偉大な父を持った家族の物語
  • 死の物語
  • 力関係の物語

 いろいろな要素を軽快なファンタジーで味付けした物語は、森見登美彦以外には描けないと思います。 

「有頂天家族」の内容

「面白きことは良きことなり!」が口癖の矢三郎は、狸の名門・下鴨家の三男。宿敵・夷川家が幅を利かせる京都の街を、一族の誇りをかけて、兄弟たちと駆け廻る。が、家族はみんなへなちょこで、ライバル狸は底意地悪く、矢三郎が慕う天狗は落ちぶれて人間の美女にうつつをぬかす。【引用:「BOOK」データベース】 

「有頂天家族」の感想

三郎と赤玉先生と弁天

 矢三郎は狸、赤玉先生は天狗、弁天は人間です。弁天は人間の中でも特殊ですが、別の種族の絡まり合いから始まります。狸の視点で描かれる人間の世界を素直に受け入れてしまう不思議さを感じます。彼らが持っている力の強さを背景にした上下関係が構築されていて、絶妙なバランスを保っています

 種族の違いだけでなく同じ種族の中でも力関係が存在します。天狗の世界では赤玉先生と鞍馬天狗の力関係が存在しますし、狸社会では下鴨家と夷川家の争いがあります。様々な関係性が絡まり合いバランスを取っています。弁天を別にすれば、人間が絡んでくるのは金曜クラブの面々くらいでしょうか。そもそも弁天以外は天狗の存在も狸社会の存在も知りません。

 人間の存在感は薄いが、弁天だけは別格です。登場シーンは必ずしも多くありませんがインパクトは強い。力が大きく辛辣で恐ろしい。悪気がなさそうなのが余計に怖さを増幅します。あくまで狸から見ればの話ですが。

 弁天を悪者として憎めないのは、矢三郎が好意を抱いているからでしょう。矢三郎は弁天のことを理解しようとしています。狸にとって恐ろしい存在でありながら、それでも近づいていきます。自由奔放な行動にも憧れているのかもしれません。

 弁天を中心に矢三郎と赤玉先生がいます。矢三郎と赤玉先生は弁天が現れる前からの関係であり、弁天は途中参加です。それでも中心になっています。弁天が表れたり消えたりすることで、矢三郎たちの行動が振り回されます。その様子が面白い。 

 

鴨家の父と母と子供たち

 下鴨家にとっての不幸は、総一郎が狸鍋にされたことです。狸界の頭領である「偽右衛門」だったので、誰もが認める偉大な狸だったのでしょう。偉大な父を持つ子供たちの苦悩や苦労も描かれています。

 長男の矢一郎は一身に責任を負っています。少なくとも負っていると感じています。長男の責務ですが、父の素質の全てを受け継いでいたとしても追いつけたかどうか。いなくなった狸の偉大さは強調されるものです。矢二郎・矢三郎・矢四郎の不甲斐なさが矢一郎をさらに悩ませます。何をもって不甲斐ないかは、矢一郎の主観によりますが。

 兄弟仲は悪くありません。矢三郎も矢一郎の余裕のなさを指摘しますが悪口ではない。矢二郎が蛙になっていることも受け入れています。他の兄弟たちも矢二郎の存在を忘れることはありません。違う性格の兄弟狸の仲がいい理由は、総一郎の部分部分を受け継いでいるからです。自分にないものを他の兄弟が持っています。それが父の性質の一部だとしたら無意識的にも尊敬の念が出ているのかもしれないし面影を感じるのかもしれません。単に兄弟だからというだけかもしれませんが。

 総一郎と早雲の関係は全く違います。総一郎自身が兄弟仲をこじらせた経験があるからこそ、矢三郎たち4人の絆を固めようとしたのでしょう。

 父亡き後、4人の支柱になるのは母です。母は息子たちを心から愛していますし、息子たちも母を心から愛しています。雷のエピソードが母を思う子供たちの気持ちを表しています。母が子供を愛するのは当たり前ですが、総一郎の血を受け継いでいることも要因です。矢二郎に会わないのも、彼の本心を知っているからです。母の行動は全て息子たちのことを考えています。一方、宝塚歌劇に心酔している様子は微笑ましい。矢三郎たちに劣らず特殊な存在であり、下鴨家一族の面白さが表れています。

 

社会の争い

 天狗と狸と人間の間で争いは起きません。絶対的な力関係があるからでしょう。しかし、偽右衛門を巡る狸界の中の争いは生々しい。人間や天狗に対する態度と違うのは、同じ狸だからです。偽右衛門を巡る争いの背後には、総一郎と早雲の確執があります。血の繋がりが早雲の憎悪を深くしたのかもしれません。総一郎を罠に嵌めることで、早雲の気は晴れたのでしょうか。矢三郎たちに憎らしい態度を見せることから、完全に満足した訳ではないのでしょう。

 偽右衛門は以前ほど権力を持っていません。それでも偽右衛門を争うのは、実態は下鴨家と夷川家の争いだからです。争いの根本は感情からであり、感情が最も大きな原動力です。

 次の偽右衛門が選ばれる時が近づくにつれ、過去の真実が明らかになります。複雑に見えて真実は単純です。しかし、天狗を巻き込み、金曜クラブを巻き込み、弁天が加わってくることで複雑化していきます。ミステリーとサスペンスの要素があります。

 生死に関わる争いでありながら、狸のどこかのほほんとした雰囲気も伝わってきます。矢三郎と矢二郎の影響かもしれません。恐ろしい弁天に近づいていく矢三郎を見ていると、早雲の死の企ても何とかなると思ってしまいます。

 現実に起きた総一郎の死と現実になるかもしれない矢一郎の死が重なっていきます。矢三郎がいる限り、矢一郎が鍋になるとは考えにくい。問題はどのようにして解決するかであり、そこが気になるところであり面白いところです。

 

拾しないようで・・・

 矢三郎は自ら厄介ごとに首を突っ込むのか。それとも引き寄せてしまうのか。赤玉先生との関係も厄介ごとのひとつです。放っておけばいいのに関わり続けるのは矢三郎らしい。二人はお互いのことを理解しているから言いたいことを言います。信頼関係とは違いますが。

 弁天も厄介ごとのひとつです。弁天自身が厄介ごとでなく、矢三郎が抱く弁天への想いが厄介ごとなのでしょう。狸と人間(半分天狗だが)の住む世界の違いが厄介ごとに輪をかけます。弁天の行動は何にも縛られません。矢三郎も好きに生きているように見えますが弁天には敵いません。

 赤玉先生が持っていた扇子や船が、弁天との厄介ごとの発端の一つです。弁天に借りなければ良かったのですが、それを踏み込んでしまうのが矢三郎らしい。もっと言うと、赤玉先生が弁天に渡さなければ問題なかったのですが。物語の前半は、三者の関係の微妙さが面白い。

 後半、狸社会に焦点が絞られてきても、弁天・赤玉先生の存在感は薄まりません。弁天も赤玉先生も狸社会に興味がないように見えます。しかし、矢三郎がいることで狸社会に関わってきます。物語の結末は、やはり矢三郎次第ということです。狸が、天狗と人間を巻き込み、狸社会の争いを解決します。収束させることができるのは矢三郎だからです。うまく収束させる爽快感と納得感があります。

 

終わりに

 京都を舞台にしたドタバタ劇のファンタジーです。内面にあるのは家族の絆の物語であり、下鴨家の強い絆が結末を幸せなものにします。常に死が纏わりつきながらも悲壮感はありません。どこか気楽な雰囲気があります。「面白く生きるほかに、何もすべきことはない」が根底に流れ続けているからこそ軽々なストーリーに感じます。

 偽電気ブラン、偽叡山電鉄の登場が森見ワールドらしい。京都を行ったり来たりしますが、地名や位置関係が京都に詳しくないと掴みづらいのが残念です。それでも京都の異質な雰囲気は伝わってきます。京都が特別な場所というよりは、森見登美彦が抱く京都への思いが特別なのでしょう。